葦名氏歴代領主『冨田家年譜』等より
氏名 | ふりがな | 生年 | 生年 | 没年 | 没年 | 内容 |
(初代) 佐原義連 |
さわらよしつら | 1133 | 保延4年 | 1221 | 承久3年 | 三浦義明の末子。初め三浦氏、後に佐原氏と称する。冶承4年(1180)頼朝の挙兵に参加。養和元年(1181)頼朝寝所の宿衛となる。元暦元年(1184)一ノ谷では功績がある。文治5年(1189)奥州征伐の功で、会津の地頭職、後に和泉、紀伊の守護となる。建久元年(1190)左衛門尉。建久2年(1191)小田山城を盛連に譲り、加納盛時の半在家に隠居。承久3年4月15日死去。墓は、横須賀市岩戸の満願寺に建てられた。永仁6年(1298)半在家にも墓が造られる。後に保科正之が整備。室は伊東祐親の娘。 |
(2代) 佐原盛連 |
さわらもりつら | 1233 | 天福元年 | 佐原義連の子。遠江守。嘉禎3年(1237)1月11日、幕府の弓初め義の射手となる。先妻に3人、後妻に3人の子がいた。後妻は三浦義村の娘。後妻の長男が葦名光盛。天福元年8月2日(5日)、60歳で死去。後妻は三浦義村の娘、矢部禅尼。 | ||
(3代) 葦名光盛 | あしなみつもり | 1204 | 元久元年 | 1268 | 文永5年 | 佐原盛連の4男。三浦半島の葦名が本拠地であったことから葦名と名乗る。北条時頼の命で将軍の弓馬の相手となる。宝治元年(1247)三浦泰村の乱では、時頼方に付く。康元元年(1256)に時頼にならい出家。文永5年5月9日死去。室は和田頼盛の娘。 |
(4代) 葦名泰盛 |
あしなやすもり | 1314 | 正和3年 | 葦名光盛の2男。下総守。康元元年(1256)北条時頼の出家とともに、父光盛が出家し21歳で家督相続。正嘉元年(1257)10月11日、鎌倉大慈寺供養に参列。弘長元年、富田範祐の子暢祐と会津で謁見。弘安10年(1287)暢祐の長男基祐と双鶴亭で謁見。永仁2年(1294)8月3日、諏方神社を勧請する。翌年隠居。正和3年7月1日、79歳で死去。室は加々美次郎の娘。 | ||
(5代) 葦名盛宗 |
あしなもりむね | 1271 | 文永8年 | 1338 | 暦応元年 | 葦名泰盛の子。永仁3年(1295)25歳で家督相続。元徳元年(1329)に59歳で隠居。元弘元年(1331)喜多方市綾金に金泉寺を建立。延元2年(1337)3月、吉良貞家と北畠顕家が戦った時には北畠方で参戦。暦応元年(1338)8月9日、69歳で死去。 |
(6代) 葦名盛員 | あしなもりかず | 1296 | 永仁4年 | 1335 | 建武2年 | 葦名盛宗の子。元徳元年(1329)に34歳で家督相続。遠江守。建武2年(1296)北条高時二男時行らにし従い、鎌倉の小笠原定宗を攻める。建武2年8月17日、40歳で鎌倉片にて嫡子高盛とともに戦死。鎌倉建長寺に葬られる。室は笹谷七郎盛広の娘、宝積寺の金峯尊公大禅定尼。 |
(7代) 葦名直盛 | あしななおもり | 1326 | 嘉暦元年 | 1390 | 明徳元年 | 葦名盛員の3男。鎌倉の大倉屋敷で生まれる。文和2年(1353)守護に任じられる。翌年小田山城を築く。至徳元年(1384)黒川城を整備する。明徳元年9月16日、京都の屋敷で67歳で死去。 |
(8代) 葦名詮盛 | あしなあきもり | 1346 | 貞和元年 | 1418 | 応永25年 | 葦名直盛の長男。幼名盛久。延文5年(1360)足利義詮に拝謁し、詮の字賜る。応安元年(1368)耶麻郡慶徳に、源翁和尚へ慶徳寺を建てる。明徳元年(1390)父直盛の死去により、直盛伯父の日什の奨めで出家する。応永25年11月3日(4日)、73歳で死去。室は大崎冶部少輔直持の娘。 |
葦名満盛 | あしなみつもり | 1376 | 永和2年 | 1442 | 嘉吉2年 | 葦名詮盛の長男。『富田家年譜』では、領主としているが取り扱っていないものもある。15歳で元服、将軍義満から満の字をもらう。応永7年(1400)に伊達政宗と図り鎌倉に抵抗、隠居を命じられ、伯父盛政に守護を譲り、応永18年(1411)36歳で出家。嘉吉2年6月3日(12日)、67歳で死去。室は伊達忠宗の娘。 |
(9代) 葦名盛政 | あしなもりまさ | 1361 | 康安元年 | 1440 | 永享12年 | 葦名直盛の3男。鎌倉中屋敷亀谷で生まれる。修理太夫。信州諏訪郡亀島郷に住んでいた。永和元年(1375)15歳で、猪苗代三河守盛親の養子となる。応永7年(1400)3月18日、甥の満盛と伊達政宗が鎌倉に反抗する。稲村御所の足利満兼、篠川御所の足利氏満に鎮圧される。『富田家年譜』では盛信の後見とす。永享12年3月9日。80歳で死去。 |
(10代) 葦名盛信 |
あしなもりのぶ | 1386 | 至徳3年 | 1451 | 宝徳3年 | 葦名詮盛の弟猪苗代盛政の子、応永18年(1411)足利義持に拝謁し、佐近少監を称する。応永28年(1421)天寧寺を開山。永享6年(1434)家督を譲る。宝徳3年3月18日、66歳で死去。天寧寺の狸ヶ森廟に葬られる。室は金上盛統の娘。 |
(11代) 葦名盛久 |
あしなもりひさ | 1401 | 応永8年 | 1444 | 文安元年 | 応永23年生の記録もあり。三郎左衛門。永享6年(1434)6月5日、盛信より家督。足利義教に拝謁し下総守を賜る。足利持氏の反乱で、将軍方に猪苗代越後守とともに付く。文安元年7月2日、29歳で死去。小寺甲斐に殺害される。室は田村利政の娘。 |
(12代) 葦名盛詮 |
あしなもりあき | 1466 | 文正元年 | 葦名盛信の子、盛久の弟。19歳で足利義教に拝謁。宝徳3年(1451)29歳で家督相続。宝徳3年(1451)・享徳2年(1453)合戦では、松本氏や芳賀氏の反乱を白河結城氏の援助で解決している。寛正5年(1416)には猪苗代盛光が黒川侵攻をしている。文正元年3月14日、44歳で死去。室は三浦時高の妹。 | ||
(13代) 葦名盛高 |
あしなもりたか | 1448 | 文安5年 | 1517 | 永正14年 | 葦名盛詮の嫡男。寛正元年(1460)13歳で足利義政に拝謁、修理太夫と称す。文正元年(1466)3月14日19歳で家督相続。文明2年(1470)安子島の伊東氏を攻める。文明3年(1471)足利義政より、足利成氏追討の命を受け、白河に出向く。文明11年(1479)5月27日、高田の渋川義基を攻める。文明16年(1484)須賀川に出兵する。明応元年(1492)3月3日猪苗代の金曲伊賀が謀反し鎮圧。4月10日、富田淡路頼祐と松本藤右衛門輔忠が謀反するも鎮圧。永正2年(1505)8月、子の盛滋と不和となり、盛滋は松本氏の綱取城に立て籠もる。10月14日、塩川の合戦で乱は鎮圧する。永正14年12月8日、70歳で死去。室は伊達尚宗の妹。 |
(14代) 葦名盛滋 |
あしなもりしげ | 1484 | 文明16年 | 1521 | 大永元年 | 葦名盛高の嫡男。文亀元年(1501)6月28日18歳で猪苗代氏を討つ。翌年常世氏を討つ。永正2年(1505)8月父盛高と争い、松本氏の綱取城に立て籠もり、塩川の日橋川で合戦をするが破れ、伊達氏を頼り永井に逃げる。永正3年(1506)8月16日黒川城を攻めるが、父盛高と和睦。永正14年(1517)34歳で家督相続。大永元年2月7日40(37)歳で没。弟盛舜を養子とする。室は渡邉綱昌の妹。 |
(15代) 葦名盛舜 |
あしなもりきよ | 1487 | 長享元年 | 1553 | 天文22年 | 葦名盛高の次男。兄は盛滋。大永元年(1521)35歳で盛滋死去により家督相続。従5位遠江守。大永元年松本大学と藤左衛門が謀反、田島の長沼実国が火玉峠で火を放ち、猪苗代盛光らが黒川城を攻めたがいずれも鎮圧している。天文7年(1538)3月15日、黒川が大火に遭い、城や家臣の屋敷も焼失。天文10年(1541)猪苗代盛頼が謀反するも鎮圧。天文12年(1543)伊南の奥山館を攻める。天文22年8月21日、67歳で死去。室は金上盛貞の妹。 |
(16代) 葦名盛氏 |
あしなもりうじ | 1521 | 大永元年 | 1579 | 天正8年 | 葦名盛舜の子。享禄3年(1530)10歳で足利義晴に拝謁。伊達稙宗の二女と婚姻。天文12年(1543)金山町横田の山ノ内氏を攻める。永禄2年(1559)には、1万の軍勢で郡山市の大槻城を攻め中通り地方を平定した。永禄3年(1560)には、佐竹・田村軍と石川郡松山で戦う。永禄6年(1563)には、武田信玄の要請で越後に侵入。永禄11年(1568)田島の長沼氏を落とすが、葦名氏方が富田滋実らが謀反するも鎮圧し、奴郎ヶ前の松原川原で斬首。家臣らは自害した。元亀元年(1570)二本松氏と戦う。翌年は北条氏政の要請により佐竹氏と東白川郡の寺山や棚倉の赤館を攻める。天正8年(1579)6月17日、60歳で死去。室は伊達晴宗の娘。 |
(17代) 葦名盛興 |
あしなもりおき | 1547 | 天正16年 | 1575 | 天正3年 | 葦名盛氏の長男。永禄5年(1562)16歳で足利義輝に拝謁。永禄11年(1568)に家督相続。天正3年6月5日、29歳で酒に溺れ亡くなる。室は伊達輝宗の妹。 |
(18代) 葦名盛隆 |
あしなもりたか | 1551 | 天文20年 | 1584 | 天正12年 | 二階堂盛義の嫡男。永禄9年(1566)2月20日、葦名盛氏・盛興に攻められ二階堂氏は降伏し、盛隆が16歳で人質となる。天正3年盛興の死去により、29歳で盛興夫人の婿となり、葦名盛氏の養子になり、家督相続する。天正6年(1587)大槻氏が謀反をし鎮圧。4月16日には、上杉景勝と景虎の争いで、越後に出兵。天正7年(1588)富田新九郎が田村氏と通じ、4月9日に鬼生田を攻め、8月に久保田を攻める。翌年、4月16日田村氏を攻め、7月には多田野氏を攻める。天正9年(1581)8月6日も織田信長に、荒井万五郎を使いに馬3匹と蝋燭千挺を送る。三浦介の称が与えられる。盛隆は、称号の礼として金上兵庫盛備を使いに上洛させる。天正12年(1584)3月伊達政宗の相馬攻めに援軍送っている。同時に佐竹義重に応じ田村氏を攻めている。6月13日には、松本太郎左衛門行輔と栗村弾正の謀反があり、鎮圧している。10月6日、黒川城の縁側に居たとき、家臣の大庭三左衛門に斬られ34歳で死去。室は盛興の後室。 |
(19代) 葦名亀若(王)丸 | あしなかめわか(おう)まる | 1584 | 天正12年 | 1586 | 天正14年 | 葦名盛隆の子。天正12年9月18日生。幼名亀若(王)丸。天正12年10月6日、父盛隆が死去。家督を相続し隆氏と付けられたとされているが確かでない。天正14年11月22日、3歳で死去する。 |
(20代) 葦名義広 | あしなよしひろ | 1575 | 天正3年 | 1631 | 寛永8年 | 常陸太田の佐竹義重の2男。天正7年(1579)白川義親の養子となり、義廣と称する。天正14年(1586)2月23日、葦名亀若丸の死去より、天正15年(1587)17代葦名盛興の入り婿となり、家督相続。葦名家は、猪苗代・富田・平田氏が伊達氏側、豊臣秀吉に近い金上氏が佐竹側に分かれ対立。この対立で義広は上洛できず、金上氏が上洛する。このとき石田三成から、盛の字を使用するよう進言されるが名乗っていない。天正17年(1589)6月5日、摺上原で伊達政宗に敗戦(伊達氏23000葦名氏16000死者葦名方2500)。6月11日黒川城を出て常陸に落ち延びる。佐竹では江戸崎城をもらい、盛重と改名。慶長6年には佐竹氏の秋田移封に伴い、角館16000石へ移り、義勝と名乗る。寛永8年6月7日、57歳で死去。 |