秋月梯次郎顕彰会 秋月梯次郎顕彰会 会長 石田明夫 平成9年(1997)10月14日 設立 令和5年10月12日 午後1時から鶴ヶ城三ノ丸で 碑前祭 午後2時30分から市文化センターで 三角美冬先生講演会「秋月梯次郎の生涯」 講演会チラシ 参加費無料 午後4時から市文化センター展示室兼会議室で 総会 をしました 令和6年(2023)は、生誕200年です。 秋月悌次郎(あきづきていじろう) ・会津藩校日新館と江戸昌平黌(しょうへいこう)でトップの成績 ・軍事奉行添役(そえやく)として戊辰(ぼしん)戦争を戦い若松城開城交渉をする ・西軍の奥平謙輔に束松(たばねまつ)峠で山川健次郎と小川亮(あきら)を託す ・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「神のような人」という 文政7年(1824)7月2日、本家は高遠城主の保科家家臣で、分家、丸山四郎右衛門胤道、会津藩士150石の二男として米代二ノ丁で生まれる。丸山から秋月に改姓し、秋月胤永(かずひさ)という。 会津藩校日新館に入ると、その才能が発揮され、飛級で大学・講釈所に進み、19歳で藩の給費生として江戸に出る。23歳で幕府の昌平黌に進み、27歳で副舎長・助勤(じょきん)となり、31歳で全国一の秀才となる指導監督役の舎長(しゃちょう)として3年間勤めた。 悌次郎の略歴 天保4年(1833)10歳で会津藩校日新館に入学。 天保13年(1842)19歳で藩より給費を得て幕府儒官の松平慎斎(しんさい)から漢学を学ぶ。 弘化3年(1846)松平慎斎の推挙により昌平黌に入学。安積艮斎(ごんさい)に師事。 安政元年(1854)31歳で昌平黌の書生寮舎長となり3年勤める。 安政4年(1857)34歳、藩に願い出て、西国遊学をし萩(はぎ)などを回る。 安政4年(1863)40歳、薩摩の高崎佐太郎とともに、討幕を計画していた長州藩士と公家の三条実 美らを下関に追放した「七卿(しちきょう)落ち」、「八月十八日の政変」を実行する。 元治元年(1864)3月、公用局の職を解かれ会津に帰る。 慶応元年(1865)42歳、7月、蝦夷(えぞ)代官として知床半島、斜里に左遷される。妻美栄と結婚。 慶応2年(1866)12月、藩命により会津に戻る。翌年3月、京都で旧職に戻る。 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い、藩の参謀役・幌役として越後方面に出張する。後に、城に入り 軍事奉行添役となり、米沢藩・土佐藩と開城交渉をし、開城式に容保公とともに列席する。 10月7日、猪苗代謹慎中に出て、越後の奥平謙輔に山川健次郎と小川亮を託し、磐梯山が見える 束松峠(茶屋2件あった)で「北越潜行の漢詩(かんし)」を詠み、11月3日雪の中猪苗代に戻る。 明治4年(1871)47歳、美濃高須藩預かり後、11月9日、青森の斗南藩(となみはん)へ行く。 明治18年(1885)61歳、東京大学予備門教諭となる。翌年東京第一高等中学校教諭となる。 明治21年(1888)妻美栄死去。 明治23年(1890)67歳、丸山ウラセと再婚。9月、熊本の第五高等中学校教授となる。 明治27年(1897)71歳、熊本第五高等中学校を退職し、若松に帰る。 明治33年(1900)1月4日、従五位に叙する。5日77歳で死去。墓は東京の青山霊園にあり、友人の 南摩鋼紀(なんまこうき)の撰文石碑が脇にある。 |