会津新選組の行動

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 新選組の土方歳三は、会津若松市七日町にあった清水屋に滞在し、東山町の天寧寺には近藤勇の墓を会津藩とともに建立します。墓には、遺髪があるとされています。

 45月10から西軍の攻撃が白河城で開始される。新選組は、白河の脇本陣柳屋を本拠として戦います。
 
55月から7月の白河城の戦いで、新選組は、郡山市湖南町福良の本陣を本拠に戦い、福良の龍伏寺で傷を癒しています。

 8月21日、
母成峠の敗戦後、新選組は、猪苗代の大原村から秋元原を経て、大塩へ行きます。斎藤一は、母成峠の戦いでは、最後まで抵抗します。大鳥圭介は、敗戦後、道に迷いながも大塩を目指します

 8月22日 母成峠で戦った新選組40人は若松へ行き、斎藤一は斎藤屋に泊まります。

 その日、松平容保の弟、桑名藩主は、磐梯山麓の磐梯町大寺口へ進みます。新選組の一部は、戸ノ口原へ向かいます。

 8月23日、桑名藩は、城下侵攻の知らせを受け、若松城下の蚕養口で戦います。新選組と旧幕府軍、桑名藩は、会津盆地の中央に位置する塩川へ転戦します。そして大塩へ向かいます。大塩宿の村人は、周囲の山奥へ飛散し、大塩宿には、誰もおらず、大事なものや食べ物の多くは残されていませんでした。

 8月24日、桑名藩は、前日の攻撃で18人が戦死します。そして塩川町に撤退。大塩から引き揚げてくる桑名兵と大鳥圭介は桧原で会います

 8月26日、大塩で土方歳三が大鳥圭介に対し、「新選組のことをよろしく頼む」と依頼します。斎藤一は「ひとたび会津にきたれば、今。落城せんとするを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」谷口四郎兵衛日記』といったのです。斎藤一は大鳥圭介とともに塩川へ移動します。

 8月27日、桑名藩は先行が米沢に入るが、米沢藩から冷たくあしらわれ、入ることができず、本隊は米沢移行を断念し、福島へ行くことを決意します。


会津新選組の行動図  喜多方での行動図  喜多方ゆかりの地  神指・若松ゆかりの地
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8月23日、新選組の土方歳三・齋藤一、旧幕府軍の大鳥圭介、桑名藩ら1千人が集合した大塩温泉 。 会津新選組が、最も西側に移動し9月2日滞在した喜多方市と西会津町との境にある陣ケ峯峠の陣跡。 旧幕府軍と新選組が滞在した喜多方市小田付の小田付代官所跡。 9月5日の早朝、西軍の長州藩に襲われた神指町の神指城二ノ丸土塁上に建てられた如来堂。


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