会津新選組の行動
新選組の土方歳三は、会津若松市七日町にあった清水屋に滞在し、東山町の天寧寺には近藤勇の墓を会津藩とともに建立します。墓には、遺髪があるとされています。 45月10日から西軍の攻撃が白河城で開始される。新選組は、白河の脇本陣柳屋を本拠として戦います。 8月22日 母成峠で戦った新選組40人は若松へ行き、斎藤一は斎藤屋に泊まります。 その日、松平容保の弟、桑名藩主は、磐梯山麓の磐梯町大寺口へ進みます。新選組の一部は、戸ノ口原へ向かいます。 8月23日、桑名藩は、城下侵攻の知らせを受け、若松城下の蚕養口で戦います。新選組と旧幕府軍、桑名藩は、会津盆地の中央に位置する塩川へ転戦します。そして大塩へ向かいます。大塩宿の村人は、周囲の山奥へ飛散し、大塩宿には、誰もおらず、大事なものや食べ物の多くは残されていませんでした。 8月24日、桑名藩は、前日の攻撃で18人が戦死します。そして塩川町に撤退。大塩から引き揚げてくる桑名兵と大鳥圭介は桧原で会います。 8月26日、大塩で土方歳三が大鳥圭介に対し、「新選組のことをよろしく頼む」と依頼します。斎藤一は「ひとたび会津にきたれば、今。落城せんとするを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」『谷口四郎兵衛日記』といったのです。斎藤一は大鳥圭介とともに塩川へ移動します。 8月27日、桑名藩は先行が米沢に入るが、米沢藩から冷たくあしらわれ、入ることができず、本隊は米沢移行を断念し、福島へ行くことを決意します。
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