石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 桧原城と伊達氏の城館、伊達政宗 会津地方には、伊達政宗が築城または改修した城跡が多数存在します。会津に入る前の伊達政宗の城は、葦名氏の城と比較すると、構造的に違うものがあります。葦名氏は、より先進的に築城方法を取り入れていますが、伊達政宗は、性格上、見栄を張る傾向があり、築城法にも特色が見られます。とくに、城の虎口部分や正面から見える部分は厳重に造っています。しかし、石積石垣の技法は、葦名氏より5年程度遅く導入しているようです。
代表的な城跡としては、北塩原村の桧原城と磐梯町の陣ノ山館です。改修した城跡では、只見町の布沢城や会津美里の向羽黒山城があります。
伊達勢の裏磐梯桧原襲撃
柏木城が築かれた天正12年(1584)には、伊達輝宗が隠居し、家督を政宗に譲っています。政宗は、血縁関係の深い葦名氏が、佐竹氏に取られたくないと思っていたことから、会津侵攻を決意します。そして、桧原と中通りの北側方面から南下して来ます。また、武力だけでなく、葦名家の内部を抱込む政策も取ります。合戦では、桧原の俊光にはかなわないという米沢領綱木の遠藤一族の意見を取り入れた政宗は、俊光の従弟四郎兵衛を抱き込むことに成功します。『檜原戦物語』によると天正12年10月26日、風呂屋が桧原に来て、穴澤一族が遊興することを四郎兵衛から聞いた政宗は、1,500人で桧原を奇襲します。当時の風呂は一般化せず、サウナのような臨時のものでした。そのため、芝居や料理も出た一大娯楽のであり、一族は、酒を交わし、なかには裸の者もいて、無防備に近いところを襲っています。風呂屋は、猪苗代道に小屋が建てられていたことから、すぐに岩山城からの応援部隊が下ったものの鉄砲や弓で待ち構えられ、多くが討ち死、退路の大塩方面の道は塞がれ、行き場を失い一族は、館に立て籠もったが、女と子どもまで奮戦したものの雨のように鉄砲と弓、火が放され、力尽き、堀の近くに枕を並べて討ち死にとう悲惨なありさまであった。俊光と父の俊恒も自害した。武士は、斉藤と横見の二人だけが生き残ったという。一族で俊光の子俊次は、北条氏の居城、小田原へ視察に行っていたが12月2日戻り、惨劇さにただ涙するばかりであったという。残った穴澤一族は、大塩の柏木城に入りました。 伊達政宗、桧原城を築く
桧原を手に入れた政宗は、天正13年(1585)、小谷山に桧原城を築城した。桧原湖の北岸標高954mの小谷山山頂に中心部があり、山麓と湖水に外構(そとがまえ・外堀)が290m、高さ1mから2mほど残り、湖内に続いている、中心部は、湖水面からの比高差が130mある。中心部分は、空堀と掘切、土塁で造られ、石垣はない。葦名方は、伊達勢の侵攻に備え、天正13年5月に萱峠に鹿垣を築いています。峠には今でも長さ163m、高さ7mの土塁があります。政宗は、天正13年5月12日、まだ完成しない桧原城と穴澤俊光の館を拠点とし、関柴の関柴備中を裏切らせ、同時に合戦を仕掛けたが、大雨と鹿垣を守っていた兵の功により、政宗は進軍を取りやめ、桧原城に帰り、一方の関柴の方は葦名方に撃退され作戦は失敗しています。 一方、穴澤一族の善七郎は、6月14日、桧原に潜入し、政宗が馬場で馬上にいたところを弓で襲ったが、失敗し大塩へ帰っています。政宗は、54日間、桧原城に居ましたが、米沢に帰り、天正17年(1589)会津侵攻まで城番として後藤孫兵衛を置いていました。 会津侵攻の要因となった葦名盛隆の死 天正8年(1580)に盛氏が死去したあと、しばらくは奥羽南部の勢力図に変化はなかった。盛隆は、盛氏同様に積極的な外交を進めます。天正9年8月6日には、織田信長の安土城へ荒井万五郎(会津美里町上荒井)を使者に、駿馬3匹と蝋燭千挺を送っています。その功により、盛隆は三浦介に任じられます。しかし、領内統治は難しく不安定でした。
天正12年(1584)6月13日、四天宿老の松本太郎(会津美里町高田の船岡館城主)と栗村下総(湯川村笈川城主)が謀叛を起こします。盛隆が羽黒山東光寺で舞楽に興じている間に、総勢約800人で黒川城を占拠し立て籠もっています。盛隆は、佐瀬河内、平田ら2,000余人で攻め、松本、栗村を討取っています。しかし、内乱は完全には収まらなかったのです。
同年10月6日、『会津四家合考』によると、盛隆が黒川城の御殿南縁に鷹を置いて端座していたところ、背後から家臣の大庭三左衛門によって惨殺されるという大事件が発生します。盛隆は、二四歳の若さであった。三左衛門は武勇に優れ、容姿も美しかったので、盛隆は、刀番にして身近に置いていたものの、うとましく思うようになったことから、嫉まれたあげくの悲劇であった。三左衛門は、本丸から落ち延び、西の城戸から逃げたが、種波子大蔵に見つかり討たれています。
盛隆亡き跡、二歳の亀若丸が葦名家を継いだものの葦名家内部は大混乱となった。葦名家を継いだ亀若丸の母は、伊達晴宗の娘で、盛興・盛隆の夫人であり、葦名氏と対立する伊達氏側として影響力を誇示していたからです。
伊達と佐竹の葦名家争奪
天正12年(1584)10月13日、平城の岩城常隆から安達郡東和町小浜城の大内定綱にあてた『伊達政宗記録事蹟考記』によると、葦名・岩城・大内の連合軍は、改めて団結を確認しあっている。
天正12年6月の松本太郎、栗村弾正の反乱のように、葦名家の家臣は、必ずしも盛隆の命に忠節ではなく、盛隆夫人に近い家臣もいたことを示しています。この年10月、伊達輝宗は政宗に家督を譲っている。政宗は、盛隆の死後、葦名氏相続に弟小次郎を据えようと画策するものの失敗したことから、佐竹義重方に傾いた葦名氏に対し、今までの表向きの友好関係を反故にし、一気に会津を攻める作戦に変更しています。佐竹義重は、『旧事雑考』によると、天正九年に会津に来て以来、天正12年4月6日までに盛隆、岩城常隆とともにたびたび田村清顕を攻めていました。ただし、盛隆は同年四月まで伊達輝宗とは表向き戦火を交えず、むしろ伊達氏の相馬攻めの時に、須江弾正左衛門に鉄砲衆をつけ、輝宗に加勢(『伊達政宗書状』)しているほどです。
葦名氏は『旧事雑考』によると、政宗が最も侵攻する可能性が高いと考えられた桧原口を防御するため、北塩原村大塩に大規模な守りの城の柏木城を築き、三瓶大蔵を置きました。葦名氏の予想通り政宗は、雪解けを待ち、天正13年5月10日、前年に反乱を起こした松本一族の関柴備中を誘い、その手引きで原田左馬介、新田常陸ら3,000人を北方に送り込み、50余の村を焼き払っています。原田氏は稲田白山社前(喜多方市岩月町)に陣取り、葦名方は三方から攻めこれを撃退しました。また、12日には政宗が桧原口から穴沢氏の居城岩山城を攻め、念願であった葦名領内の桧原を支配下に収める。それから54日間、政宗は桧原に留まり、桧原城を築き、後藤孫兵衛を城番に置いています。この戦いが、政宗の会津侵攻の始まりででした。
伊達輝宗、政宗の桧原侵攻
裏磐梯は、会津葦名氏の黒川と米沢伊達氏とを結ぶ最短の街道、国境の最前線であったため、たびたび伊達の攻撃を受けた。『檜原戦物語』には、永禄7年(1564)以降、盛氏と対立していた伊達晴宗が、会津侵攻や、安達侵攻のために陽動策戦とし桧原を攻めたが、桧原の穴沢氏の働きでそのつど撃退させられています。
永禄7年4月12日、伊達の侵攻を察知した穴沢俊恒は、国境の桧原峠に空掘を掘り、その下に大木を切り倒して枝を下に向けた逆茂木を並べ、物見を置き、騎馬17、総勢480余人で待ち構えていた。伊達勢は、騎馬200、総勢1400〜500人で攻めたが、大木や一斉の弓の攻撃で撃退され、多くが谷に落ち、穴沢方の勝利となっています。俊恒は、伊達の再攻撃に備え、桧原村の北西に戸山城(標高1037b)を築き、一家の者が交代で詰めることにしたのです。
桧原は冬になると2b以上積雪がある日本有数の豪雪地帯で、裏磐梯は背あぶり高原とほぼ同じ標高823bの高原です。戸山城は、北側の尾根にV字状に深く切り落した堀切を3ヶ所築き、南には長さ約70bの空堀と土塁を二重に配置、東を大手口とし、中心部は三日月状に幅5bの平場を8段造っています。
永禄8年(1565)7月17日の早朝、戸山城は、北の堀切から伊達勢約800人で不意に攻められた。城内には、盆にあたることからわずかに20人と女房どもだけが居たとされ、大防戦し敵味方双方それぞれ約70人が討ち死したものの落城しなかったという。この城は、背後から攻められると弱いことが分かったので、同年戸山城は破却、新たに村南の堂場山に岩山城を築城した。岩山城は、北を大手、搦手は会津方面の道、退却路の妻手を猪苗代方面の道にしたという。城跡は、堂場山ハイキングコース上に位置し、高さ約3bの土塁や堀跡、平場が残されています。
永禄9年(1566)1月、伊達勢は二十三夜信仰の日を狙い、雪深い中、約1000人で村はずれを襲ってきた。一族は一時岩山城へ逃げたが、穴沢俊恒、俊光らの活躍で敵の側面を襲い、伊達勢を撃退しています。
天正12年(1584)盛隆が死去すると葦名氏は、佐竹義重と接近を図り、伊達氏と対立がより鮮明になる。そこで、桧原方面の要であった綱取城(北塩原村役場の裏)を大改修し、さらに大塩に巨大な守りの柏木城を築城します。
柏木城跡は、大塩温泉の南に位置する山城。東西約1.2`、南北約500b、面積約50fの東西方向に長く、葦名氏が総力を上げて築いた石垣の城です。『旧事雑考』によると周辺の武士150騎と、三瓶大蔵らが守備にあたったとされています。天正17年6月の摺上原の侵攻に合わせ伊達家の原田氏がこの城に入ったときは空であったとされ、焼けた痕跡があることから、三瓶大蔵は火を放ち退却したと考えられる。以後、この城は改修されず破却されとようです。
天正12年、政宗は、家督相続すると血縁関係の深い葦名家を、佐竹氏に取られたくないと思っていたことから、会津侵攻を決意する。天正12年11月26日、毎日風呂に入ることがなかった時代、風呂屋は諸国を巡り、サウナ風呂に近いものを提供し、酒や肴を出し、芝居も行う遊興の場であった。その風呂屋が桧原に来たところを伊達勢約1,500人で奇襲した。なかには裸の者もいて、無防備に近いところを襲われた。岩山城から応援部隊が来たものの、伊達勢が鉄砲や弓で待ち構え、多くが討ち死した。退路の大塩方面の道は塞がれ、行き場を失い、城に立て籠もり、女と子どもまで奮戦したものの火攻めにあい城主の穴沢俊光ともども自害したという。
俊光の子俊次は、北条氏の小田原へ行っていたことから助かり、かろうじて残った穴沢一族が大塩の柏木城に入っています。
桧原を手に入れた政宗は、天正13年(1585)、桧原湖北岸標高954bの小谷山に桧原城を築城した。山麓には外堀にあたる外構を築いた。現在、土塁と馬出し、虎口が高さ約2b、長さ290bで残っている。中心の曲輪には、空堀と掘切、土塁が残っています。
葦名氏は、桧原を政宗に占領されたことから、天正13年5月、米沢街道の萱峠に防塁の鹿垣を築き柏木城を巨大化させた。萱峠には、長さ163b、高さ7bの土塁が残っています。
政宗は、まだ完成しない桧原城を拠点とし5月10日、関柴の関柴備中を裏切らせ、原田左馬介を送り込み、会津盆地に攻め込んだ。桧原口では5月12日、政宗は合戦を仕掛けたが、大雨と鹿垣を守っていた兵の功により、進軍をあきらめ、桧原城に帰っている。侵攻の2日間の違いは、相互の連絡が不十分であったためで、当初は同時侵攻の予定でした。
その後桧原では合戦は無く、6月14日、穴沢一族の善七郎が、桧原城に潜入し、政宗が馬場の馬上にいたところを弓で襲ったが失敗し、大塩へ帰っている。桧原城には、天正17年(1589)6月の会津侵攻まで城番として後藤孫兵衛を置いていた。
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