石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 

葦名家墓所葦名家花見ヶ森廟所(あしなけはなみがもりびょうしょ)


  鎌倉時代から室町時代にかけて中世会津を支配していたのは葦名氏です。神奈川県の三浦半島を支配していた
三浦一族の三浦義明十男、佐原十郎義連(後に佐原氏から三代目の時に分かれ葦名と名のる)が平泉の藤原氏征伐
の功績によって、文治5年(1189)に会津を与えられて、天正17年(1589)6月5日に伊達政宗と、猪苗代町の摺上原で戦
い破れるまでの400年間会津を支配していました。
 葦名氏は、鎌倉時代の後半までは鎌倉に住み、会津に定住するのは鎌倉時代の後半と推定されます。葦名氏全盛
の時には、会津のみならず二本松市からいわき市まで、県内の半分以上を支配下に収めるほど勢力を誇示していまし
た。葦名氏最後の20代義広(義重と改名)が、伊達政宗に敗北すると、出身である佐竹家本拠の茨城県常陸太田市へ
戻り、さらに茨城県の江戸崎町の江戸崎城へ移り、慶長6年(1601)の佐竹氏秋田移住とともに秋田県角館へ移ってい
ます。角館町には、城が築かれ、城下には家臣の武家屋敷とともに天寧寺をはじめとする寺も建てられました。角館葦
名家の菩提寺は天寧寺で、寺の裏に葦名家の墓所が残っています。葦名氏が会津を支配していたときは、黒川城(現
在の若松城の前身)を居城とし、最最後の砦として、小田山城後に、向羽黒山城を築いています。

 葦名氏の墓所
  初代佐原義連の墓は、横須賀市岩戸の満願寺にある。熱塩加納村にある義連の墓は、『富田家年譜』によると永
仁六年(1298)に葦名氏が建てたもので、保科正之が寛文五年(1665)に、碑文などを整備を命じています。

 三浦葦名一族
 三浦半島の横須賀市には、三浦氏、その分家となる葦名氏、さらに分かれた葦名氏の城跡や菩提寺が、それぞれ
残っています。
 1 三浦一族の居城は山城の「衣笠城跡」、菩提寺は「満昌寺」。三浦義明の墓は、市指定史跡。
 2 佐原氏は、佐原インター出口付近に居城で山城の「佐原城跡」、菩提寺は「満願寺」。
      佐原義連の墓は、市指定史跡、仏像は鎌倉時代初めに作られた国指定重要文化財。
 3 葦名氏は、相模湾に面した芦名にあり、館は「御(み)館」、居城は「芦名城跡」、菩提寺は浄楽寺   です。 寺
の仏像は、鎌倉前期に作られた国指定重要文化財。
 2代目佐原盛連、3代目葦名光盛、4代目葦名泰盛、5代目葦名盛宗までの墓は不明で、6代盛員は、鎌倉の建長寺
に葬られている。5代盛宗は、九州であった元寇に参戦しています。
  葦名氏の墓所は、市内門田町黒岩地内、小田山中腹に築かれたとされる寿山廟、市内花見ヶ丘二丁目にある竹巌
廟(「葦名家花見ヶ森廟所」)、東山町天寧の狸ヶ森廟の3ヵ所に分かれています。

 1 寿山廟 市内門田町大字黒岩地内
  黒川城(現若松城)の南東の小田山麓の宝積寺裏山には、3代目光盛の法名にちなんだ寿山廟(じゅざんびょう)あ
る。3代から9代までの墓所とされていますが、各領主の墳墓は特定できない。
 16代盛氏の葬儀を示した『葦名盛氏葬送之図』には、2代盛宗から9代盛政までの墓が描かれています。現地には、
墓に似た自然地形や古墳時代中期の古墳もあり、墓の特定は困難な状況にあります。現地では、宝積寺の伝承とし
て、歴代の墓の位置が伝わっているもののそれらが墓とすれば、低く小さなものです。調査がされていないことから構
造は不明です。7代直盛までは、鎌倉や京都に住んでいた可能性が高いことから、墓は鎌倉などにあり、寿山廟は、分
骨か遺品を埋葬したものであろう。

 2 竹巌廟 市内花見ヶ丘二丁目  会津若松市指定史跡  昭和47年11月1日指定
  寿山廟の北に位置する市内花見ヶ丘二丁目に、16代盛氏の法名をとった竹巌廟(ちくがんびょう)、別名「葦名家花
見ヶ森廟所」があります。そこは、10代と12代から18代までの墓所で、現在も16代から18代まで3基の墓が残され、市
指定文化財となっています。
墓は、人頭大より大きな川原石によって、高さ約3m、直径約11.6mから9.3mの円形に積まれています。東から18代盛
隆、16代盛氏、盛氏より先に亡くなった17代盛興と並び、墓の上には五輪塔が建てられています。五輪塔は『会津藩家
世実紀』によると、保科正之が寛文5年(1665)12月6日、熱塩加納村半在家にある佐原義連の碑文とともに造らせたも
のです。『葦名盛氏葬送之図』には、3代の墓の他に、殉死塚が南に3基描かれていますが、現在は存在していない。ま
た、その図には、盛氏の墓の北には東から15代盛瞬、13代盛高の墓が並び、さらに北には盛久、12代盛詮、14代盛
滋が並んで描かれています。宅地化されるとき、塚は消滅し、その際に刀剣などが出土したという。 
  なお、盛氏ら3代の墓北約50mの国有地に、領主は特定できないものの葦名氏墓が1基残っています。高さ約2.6m、
直径約9.6mで、人頭大の川原石で積まれている。絵図からすると盛高か盛滋のどちらかとみられます。19代亀若(王)
丸の墓は、竹巌廟の18代の東に造られましたが位置は不明です。

 3 狸ヶ森廟 市内東山町天寧地内
  盛信(もりのぶ)の墓所は、黒川城(若松城)の東に位置する天寧寺東裏山の狸ヶ森廟(たぬきがもりびょう)にありま
す。天寧集落裏の小高い位置にあるが、塚状の遺構は確認できないが、一段高い石垣で囲まれています。幕末に描
かれた『院内墓所図』にも盛信墓が描かれています。
 葦名氏の墓は、戦国時代以前に造られたものは全国の領主墓同様、塚状の大きなものではなく、低く簡素なもので
あった可能性が高く、戦国時代になると塚状に変化しています。

 4 その後の葦名氏の墓
 葦名氏は、20代義広が出身の常陸の佐竹氏のもとに戻り、茨城県江戸崎の江戸崎城をもらいます。そのご、関ケ
原で、上杉景勝とともに石田三成方についたことから、佐竹氏は秋田に移封となり、角館をもらいます。そして、天寧寺
が建てられ、「葦名氏墓所」が造られますが、葦名氏は三代に途絶えてしまいます。
文責 石田明夫
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摺上原の戦いと会津の伊達政宗
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