石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 1 平安時代末の会津 平安時代の末、12世紀は、全国的にも源氏や平氏、奥州平泉の藤原氏といった武士が勢力を持ち、比叡山や興福寺といった寺社も独自の武士団を抱え、武士の時代が始まる。 会津では、磐梯町の恵日寺が、寺独自に3000人ともいわれる僧兵を擁し、実質的に会津を支配下に置いていた。その頭をしていたのが、越後の城氏と関係があるとされる淨丹坊である。 また、越後の城氏は、新潟県阿賀野市安田付近に本拠地を置いた武士で、会津にも支配地を持っていた。『旧事雑考』によると会津坂下町宇内の陣ヶ峯城など八ヶ所の館を築いたとされている。また、『新編会津風土記』によると恵日寺の西の磐梯町町屋には、陣ノ山館を築き、配下の武士を置いたともいわれている。 源氏と平氏の戦いでは、越後の城氏と恵日寺は、平氏方に属していた。そのため、『玉葉』では養和元年(1181)6月13日、信濃国の横田河原(現在の長野市川中島)に城氏約3万余と恵日寺約3000人で進攻し、源氏の木曽義仲の兵約3000人と戦ったが大敗し、9000人だけが帰ったのみとなった。敗北により、城氏と恵日寺の勢力は衰退し、城氏は「会津の城」に入ろうと したが、会津はすでに平泉の藤原氏によって押さえられたことから入ることが出来なかったという。(平家物語では、翌年の9月9日としている)僧兵の頭である淨丹坊もその時、討たれている。 文治5年(1189)神奈川県三浦半島出身の佐原義連が、平泉の藤原氏征伐の功績により、源頼朝から会津を拝領し、会津は武士の支配下に属するようになる。 2 義経伝説と皆鶴姫 保元4年(1159)、源義経は誕生する。平治の乱で平氏に敗れた源氏は、頼朝が伊豆へ流され、義経は京都洛北の鞍馬寺に預けられた。承安2年(1172)名古屋の熱田神宮で元服し、義経と名を改め、平泉の藤原氏を訪ねている。承安4年(1174)に義経は、京都へ行っている。そして、平氏の動向を探っていた義経は、『新編会津風土記』によると、兵法に通じた吉岡鬼一法眼が所有する兵法書をどうしても手に入れようとしたが叶わず、娘の皆鶴姫(母は、藤原成道の側室で皆鶴はその娘、後に皆鶴を連れ吉岡鬼一法眼の後妻となる)に近づき、密かに書き写したという。その時、帽子丸という男子が生まれたという。その後、義経は、平氏の動きを察知し、平泉を向かった。その動きに、皆鶴姫は驚き、後を追った。安元2年(1176)『旧事雑考』によると会津若松市神指町の柳原に皆鶴姫が2歳の帽子丸を連れて来た時、敵に帽子丸が捕まり、沼に投げ入れられ、溺死したという。その後、この沼は帽子沼とよばれるようになった。沼は、柳原菅原神社の東約80mの市道と県道との交差点付近にあった。皆鶴姫は、何とか逃げ、藤倉に立寄ったところ、義経は5日先にここを通り過ぎたと聞かされ、行き先は山路が険しいといわれた。そして、沼の水面に写る自分のやつれた姿に嘆き、3月12日、18歳で難波池に投じたという。その時、義経は大寺に居てその報を聞き、急ぎ戻り、この池の傍らに皆鶴姫を葬り、墓を築いた。そして、難波寺が建てられ、その後、板碑が建てられた。また、東に鏡山というのがあり、皆鶴姫の鏡を埋めたという。(その場所は古墳で、発掘調査された)この墓に参詣すれば良縁に恵まれるという。また、会津若松市高野町界沢には義経が馬を降りて橋を渡った「おり橋」がある。 3 藤倉周辺の史跡 @延命寺地蔵堂(藤倉二階堂)国指定重要文化財・建造物 会津若松市河東町藤倉室町時代初期から中期にかけて建てられたとされている。元は萱葺きであったが、磐越西線の開通により、機関車の影響で火災の恐れがあることから、大正2年に瓦葺きにされている。三間四面に、裳こしは5間四方で、吹き抜けとなっている。 この堂の余材を、北を流れる大工川に流し、下流に位置する会津若松市高野町平塚の薬師堂が一夜にして建てられたという伝説がある。大工が木を流したことから、その川を大工川という。 A藤倉の館跡 会津若松市河東町指定史跡 『新編会津風土記』によると佐原盛連の三男、藤倉三郎左衛門盛義がこの館に住むという。東西約150m、南北約130m、土塁が東、北、西にあり、高さは高いところで約3mある。土塁の周りには、幅約4mの水掘りが巡らされている。藤倉氏は、後に会津坂下町の金上に移り、金上氏と名乗り、葦名氏の重臣として代々津川城代を勤めていた。会津若松市周辺では最も良く残された館跡である。 B皆鶴姫の碑 会津若松市河東町指定有形文化財 源義経が、京都の鞍馬寺に預けられているとき、兵法書を吉岡鬼一法眼が持っていることを知り、見ることを願い出るが許されず、娘の皆鶴姫に近づき、兵法書を写し取ることに成功する。平氏の追っ手が近づいていることを知り、義経は平泉に逃れた。皆鶴は、義経の後を追い、会津に来たが、追っ手により発見され、義経との間にできた帽子丸がとらえられ、沼で溺死。皆鶴は、藤倉の難波沼まで来たが、身を悲観し、沼に身を投じて亡くなった。墓が造られ、難波寺が建てられたが、寺は廃寺となった。この碑は、寛政5年(1793)に会津藩で建てられた。下居合には、皆鶴姫が義経の名を呼んだ「よばる橋」というのがある。 C暦応の碑(りゃくおうの碑) 会津若松市河東町指定有形文化財 皆鶴姫の碑から南に位置する板碑群。3基ある。東から、阿弥陀如来を表すキリーク、中心のものは、観音菩薩を表すサ、西側のものは阿弥陀如来を表すキリーク、観音菩薩を表すサ、勢至菩薩を表すサクが彫られている、中心に位置する高さ約60cmの板碑には「暦応五年(1342)十二月敬白」と彫られていることから、南北朝時代に造られていたことが判明している。他2基 の年号は読み取れなかった。 4 義経と佐原十郎義連 @佐原十郎義連墓 福島県指定史跡 熱塩加納村半在家文治5年(1189)に平泉の藤原氏の征伐で功績を上げた三浦半島出身の佐原十郎義連は、会津の地を源頼朝から拝領する。その後佐原氏は、3代目になると葦名氏、北田氏、新宮氏、加納氏など分割して支配し、葦名氏が勢力を持つようになる。佐原氏や葦名氏は、現在の横須賀市に城を構え住んでいた。佐原氏は佐原城と菩提寺の満願寺があり、満願寺の仏像は、鎌倉時代初めに造られ、国の重要文化財になり、佐原義連墓は市指定史跡となっている。葦名氏は、横須賀市芦名に御館と芦名城に居住し、近くには、国重要文化財の仏像を有する淨楽寺がある。 佐原義連は、深長約180cmの大男。源氏と平氏の戦いで元暦元年(1184)2月、一ノ谷の戦いでは、義経とともに「ひよどり越えの逆落し」で、平氏の背後から馬で奇襲し、平氏を敗北に導いた。なお、佐原義連墓は、熱塩加納村半在家にも墓がある。宝?院塔は、『富田家年譜』によると応永2年(1395)8月18日葦名氏が建立している。周りには小五輪塔が9基ある。東側には、保科正之が山崎闇斎に命じ書かせた石碑とともに元禄8年(1695)5月8日、周囲を整備している。この石碑の北側には、岩尾村の佐原館跡があり、土塁と堀跡がいまでも残り、子孫の佐原氏が住んでいる。 A青山城跡 喜多方市史跡 喜多方市上三宮 加納氏の本拠となる城跡。喜多方市上三宮にあり、集落西側の丘を中心に一曲輪、北側に土塁と堀跡、南側に平場と堀切が残っている。一曲輪には山王神社がある。 B願成寺 国重要文化財 喜多方市上三宮 浄土宗多念義派の本山、開山は隆寛律師。安貞元年(1227)天台宗より浄土宗の専修念仏が迫害を受け、隆寛は、奥州に配される。しかし、実際は、身代わりの実成坊が、会津の上三宮へ流され、師は、神奈川県の飯山に配された。この寺には、岩月町中村にあった来迎寺阿弥陀堂から移したと伝えられる国指定の阿弥陀三尊がある。会津大仏として親しまれている。 5 義経と帽子沼 会津若松市神指町柳原 菅原神社入口に帽子沼の石碑がある。帽子沼は、菅原神社東側のオリンパス通りと蟹川橋へ行く県道との交差点付近にあった沼で、『新編会津風土記』では南北約150m、東西約12mの広さがあったとされている。『旧事雑考』によると安元2年(1176)、義経の後を追って来た皆鶴姫は、敵方に捕まり、2歳の帽子丸はこの時、沼に投げ入れられ溺死したという。それ以来、この沼は帽子沼とよばれるようになった。 文責 石田明夫 |