石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 

若松城なんでも辞典
      
基本編
城の名前は 
 「鶴ヶ城」(つるがじょう)これは通称名です。室町時代には「黒川城」(くろかわじょう)とよばれ、江 戸時代には 「会津若
松城」(『家世実紀』などの公式記録)と読んでいました。国史跡の登録さ れ  た正式名は「若松城跡」(わかつまじょうあと)
です。
城の基本形
  大坂城のような平山城、馬蹄形した梯郭式の城。基本形は葦名氏が造り、蒲生氏郷がほぼ同じ大 きさのものを堀を広くし
土塁を高くし、石垣を積んだもの。加藤氏が馬出しの西出丸・北出丸を総石垣 としました。
  葦名時代の古くは東が大手、後に西が大手となり、江戸時代には北が大手となります。
石垣の種類
  大きく「野面積」(のづらづみ)「打込みハギ」「切込みハギ」の3種類があります。
  「野面積」    天守台と裏門内側の石垣で、加工をあまりしない石や川原石を使用しています。
  「打込みハギ」 太鼓門周辺や裏門外側の石垣。外側表面は平らにしていますが石と石との重な  りには隙間 (す きま)
があります。
  「切込みハギ」 鉄門や廊下橋周辺の石垣。外側表面は縦目地が見えるように化粧されたもの   で、石と石との重なり
は直線的で隙間なく詰め込んだものです。
面積はどのくらいか
  三の丸の堀を含めて28.935ヘクタールです。神指城は約55ヘクタールです。
  外郭の武家屋敷を含むと、約210ヘクタールです。神指城は約500ヘクタール。
国指定面積は 
  国指定面積は、22.9401ヘクタールです。
  外郭遺構の国指定面積
   「甲賀町口門跡」(こうがまちぐちもんあと)が347u。
   「天寧寺町土塁」(てんねいじまちどるい)(花春土塁)が3620.71uです。
天守閣の高さどのくらいか
  天守閣の建物は25.15m、天主台の石垣が11m、合計36.15mです。
だれの所有か
  土地も建物も会津若松市の所有になっています。管理は(財)会津若松市観光公社
城とは
  土塁や堀、櫓、塀を造って防御を強化したもの。
土塁
  土を盛り上げて土手状にして、敵が侵入できないようにしたもの。若松城本丸の土塁は約7メートル  あり、石垣を含めると
約11メートルあります。
石垣
  石を積み上げて、敵が入れないようにしたもので、内部には裏込めの栗石が入れられる。栗石を入  れないものを石積と
呼び、表面上石垣に見えるが、内部に栗石を入れないものを石積石垣という。
  若松城本丸廊下橋脇の石垣の高さは約16.2メートルあります。蒲生氏郷は、石垣職人を前田家の  金沢の穴太衆(あの
うしゅう)から招き、棟梁の奥泉には2千石を与えていました。
(やぐら)
  本来は、弓矢を入れておく倉です。物見を兼ねた物で二階建て以上あり、主に武器を入れていまし  た。若松城には12の
櫓があります。
大手・大手門(おおて)・追手門
  城の正面。正面の門を大手門。若松城では、追手と書いています。
搦手(からめて)
  城の裏口。
(くるわ)
  戦国時代には、「曲輪」(くるわ、縄を曲げて輪のようにし城の形を造ったため)という。城の一定の   まとまった区域。江
戸時代になると「丸」と呼ぶようになります。

構造編
石垣はどうやって運んだか
  道を石畳にして丸太を並べ、上に修羅(しゅら)というY字形の大きな木製のソリに石を乗せて運びました。
石垣はどこから切り出したか
  会津若松市東山町石山(慶山)の石切場から運びました。
石質はなにか
  溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)
石垣はどのようにして積んだか
  内側から運び上げ、外側の面を揃えて積んでいきました。
天守閣はどうやって建てられたか
  足場を組んで建てられました。
昔の建物は残っているか
  江戸時代の建物の一部を使用したのが茶室「麟閣」。
  御三階は、明治3年(1870)5月に市内七日町の阿弥陀寺に移り、大広間の玄関が取り付けられました。
櫓(物見や武器を保管した2階以上の建物)はいくつあったか
  12ありました。本丸内にあった御三階櫓も含む。外側の石垣上にあるのが11です。
  「本丸」御三階櫓 干飯櫓 月見櫓 茶壷櫓
  「帯郭」御弓櫓 北角櫓、弓櫓 南西角櫓
  「西出丸」西南角櫓 北西角櫓
  「北出丸」東北角櫓 西北角櫓
井戸の深さと水は出るか
  約10mから水が出ます。水の出ないものが約半分ありました。
鶴ヶ城の手本は
  豊臣秀吉の大名であったことから、大坂城を手本としています。そのため、天守閣は黒く、瓦は金箔瓦を使用していました。蒲生氏郷は、広島
城のようにしたかったと『新編風土記』に書かれています。
本丸には建物跡が残っているか
  昭和25年3月、競輪場が造られたので現在地より1.5m掘り下げられ、周辺部の一部にしか遺構は残っていません。昭和32年9月に鶴ヶ城体
育館へ競輪場が移転し、昭和35年には現在のようになりました。
本丸
本丸には何があったか
  天守閣、本丸御殿(大書院、小書院、御用間、金之間、表御座所、御寝所、対面所、御台所、長局、御風呂)
 御三階櫓、干飯櫓、月見櫓、茶壷櫓、御文庫、茶室、御庭、表門(鉄門)、裏門、走長屋、腰掛、御馬場、御弓場、番所がありました。
天守閣のモデル
  『新編風土記』によると、蒲生氏郷は、豊臣秀吉が朝鮮半島へ侵攻した文禄の役(えき)に拠点とした肥前(佐賀県)名護屋城の天守が建てら
れているところを真似た書かれています。当初は7層でしたが、慶長16年(1611)の会津地震で傾き、加藤明成(あきなり)の時(1641頃)に白壁
の5層の天守閣に建て替えられています。
本丸の表門
  天守閣の南にあり、扉が鉄板で覆われていることから「鉄門」(くろがねもん)と呼ばれています。
本丸の裏門
  天守閣の北東にあり、表門に似た門でした。今では明治時代に門南側石垣が撤去されています。
大奥はあったのか
  大奥(おおおく)とは、女性だけ区域。長局(ながのつぼね)といい。本丸の北側部分にありました。
政治はどこで行ったか
  殿様は、本丸の表門(鉄門)をは入ってすぐの大広間、大書院、小書院、御用間で政治や仕事をしました。
殿様はどこで寝ていたか
  御寝所(ごしんじょ)といい2ヶ所ありました。
  御三階の向かいと長局内東の庭に面した場所にありました。
茶室は誰が建てたか
  蒲生氏郷時代に千少庵が建て、「麟閣」(りんかく)と名付けました。現在、本丸に建つ茶室は、床柱が当時のものと伝えられています。この茶
室は、若松城の建物が払い下げられ取り壊しになる時、茶室を馬場町の森川家が譲り受け、森川家にあった石州流の茶室を若松城内にあった茶
室の材料で修復し、保存されていたものを市が買取り現在地に移しました。
御三階では何をしたか
  外観は3階に見えますが、内部は4階で3階は板の間で天井が低いもので、倉庫のようになっていました。3階と2階に登る階段は3階に引き上
げて収納されるよう作られ、2階から4階(広さ4畳半)へは登れないようになっていました。人が入れないようして会議をした場所です。床は「うぐい
すばり」になっています。3階は板の間で天井までの高さが約1メートルです。
月見櫓とは
  本丸南東の櫓で、月見をするのに良い場所であったため付けられた。物見(ものみ)櫓。
茶壷櫓とは
  茶室に近いことから、茶壷を保管したためこの名がつきました。

帯郭 本丸の北と西にある空間
帯郭(天守閣の西側・北側の空間部分)には何があったか
  御弓櫓、北角櫓、弓櫓、西南角櫓、廊下橋門、太鼓門、西中門、金蔵、雑蔵、兵器蔵、塩蔵、呉服蔵、台所、
 台所雑蔵、番所、金蔵番所、馬屋、稲荷神社、鐘撞堂
太鼓門
  直径約175センチの大太鼓が置かれ、登城の合図に使用されていました。
廊下橋はどのような橋だったか
  古い時代は、そろばん橋といわれます。蒲生氏頃には、屋根のある廊下のついた橋であったものが、加藤氏のときに屋根の無い現在のような
橋となりました。
鐘撞堂(かねつきどう)
  城下に時を知らせる鐘で、戊辰戦争でも狙い撃ちされましたが、正確に時を知らせ、新政府軍も時報を参考にしたといわれています。鐘は古
く、『旧事雑考』によると喜多方市熱塩の示現寺にあった応永34年(1429)に富山県 高岡で作られたの鐘を使用していましたが、寛文中(1670年
頃)に壊れたので、寛文11年(1671)に鋳造し、延享4年(1747)には再度新しくしています。
稲荷神社
  葦名直盛が、鎌倉より持ってきた神社。ご神体は、狐の乗った神像(市指定文化財)。ご神体は、馬場町の鶴ヶ城稲荷神社にあります。
遊女石(ゆうじょいし)
  太鼓門の側にある大きな石、『新編風土記』に石を運ぶ時に運べなかったことが、この石の上に遊女を乗せ、いろいろな俳優をさせたことに由
来します。文献には、文禄年間とありますが、慶長年間の修理の時にこの石を運びました。
西出丸
 西出丸(西側の通りに面した石垣に囲まれた部分)には何があったか
 西南角櫓、北西角櫓、西大手門、内讃岐門(南門)、大腰掛 蝋蔵、漆蔵、物置小屋、玉薬蔵、蔵番所、塩硝蔵(土塁に囲まれていた)
北出丸
 別名、皆殺し丸といいます。中には建物は門の番所を除きありませんでした。
北出丸(北側の石垣に囲まれた長方形の部分)には何があったか
  東北角櫓、西北角櫓、追手門、西門、番所、大腰掛
大腰掛(おおこしかけ)
 追手門の外にある階段状の石垣。本来は門がありました。
椿坂・梅坂の由来は
  北出丸から本丸に入る坂を横手坂(よこてざか)といい、椿を植えていたことから椿坂(つばきざか)という。
  西出丸から本丸に入る坂を知期理坂(ちぎりざか)といい、梅の木を植えていたことから梅坂(うめざか)という。
二ノ丸
二ノ丸(本丸東のテニスコートがあるところ)には何があったか
  伏兵郭(梨子園、小羽板蔵)、東門、南門、薬師堂、米蔵、蔵番所、書物蔵、納戸蔵、
伏兵郭(二の丸北側、一段低いテニスコートの部分)とは何か
  隠し郭で、東門を入って、土塁の内側に郭があるように見えない郭
三ノ丸
三ノ丸には(東側の駐車場と県立博物館の部分)何があったか
  三ノ丸御殿、南門、不明門、埋門、八幡神社、大番所、渋蔵、薪蔵、雑蔵、番所、大的場、屋形、練習場

文責 石田明夫   

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