石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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                むかいはぐろやまじょう
     向羽黒山城
 
1.はじめに
 会津美里町本郷の岩崎山は、『若松地域の地質』によると火山噴出物の流紋岩(溶岩と流紋岩火砕岩(りゅうもんがんかさいがん)で出来た山です。会津盆地のどこからでも見える岩崎山には、葦名盛氏(あしなもりうじ)が永禄4年(1561)から11年(1568)までの8年間を費やし、最後の砦、決戦の場として築いた「向羽黒山城」があります。町からは約190m高く、標高408mの山頂を中心に、東西約1.4q、南北約1.5qの範囲に城跡があります。面積約50.57f 若松城の約2倍の面積、柏木城・神指城とほぼ同じ大きさ 「平成13年8月7日、国史跡指定」 堀跡、土塁、虎口(こぐち)と呼ぶ入口、裏込め石の無い本格的な石垣の前段階の積み方の石積石垣(いしづみいしがき)、礎石(そせき)建物跡などの遺構があります。
 葦名盛氏以降、葦名盛隆(もりたか)、葦名義広(よしひろ)、伊達政宗(だてまさむね)、蒲生氏郷(がもううじさと)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)と歴代の領主が改修した。慶長5年(1600)に上杉景勝が豊臣方であったことから敗北し慶長6年(1601)、家康の命により、破城(入口や建物などを破壊し使用できなくすること)させられているようです。 岩崎山頂は「実城(みじょう)」と呼ばれ、一曲輪(いちのくるわ)といい、江戸時代では本丸と呼ばれています。展望の公園となっているのが「中城(なかじょう)」という二曲輪で江戸でいう二の丸。北側の御用地側に「外構(そとがまえ)」という外堀がありました。最終段階は北側が大手ですが、三日町が大手となっていた時もあります。中世の時は、平らにした一定のまとまりのある平場(ひらば)を曲輪(くるわ)とよび、江戸時代になると、曲輪(江戸時代になると「郭(くるわ)」と書きます)丸と呼ばれるようになります。 

2.向羽黒山城以前の城
  向羽黒山城が築かれる以前、葦名(あしな)時代は政治や生活の場として、黒川城(現在の若松城の地にあった)がありました。葦名盛氏以前は、黒川城以外に戦争時に立て籠もる詰めの城として、南東1.4kmの小田山と通称青木山と呼ぶ奴田(どた)山に小田山城がありました。小田山と奴田山には土塁、平場(ひらば)、堀切(ほりきり)、虎口(こぐち)が残っています。最上部の奴田山の曲輪(くるわ)には、高さ約1mの土塁、平場、幅約10mの堀切(ほりきり)があります。小田山城からは黒川城内の動きが手に取るように見えるため、黒川城の防御上、敵にこの城が落ちると不利となるため、独立した別の場所に山城を移したのが向羽黒山城です。
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北側御用地口から見た向羽黒山城
  東側大川(阿賀川)から見た向羽黒山城
西側三日町口から見た向羽黒山城

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 向羽黒山城イメージ図 「向羽黒山城」縄張図  石田明夫実測
   
                 実測図、1/500で実施し1人で土日だけの休日を利用し延べ約20日掛かりました
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慶長5年(1600)上杉景勝勝時代の幅約30メートルの堀切
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 二曲輪にある石垣
蒲生氏郷、天正18・19年(1590・1591)頃
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自然石を利用した「石弓」
上杉景勝、慶長3・4年(1598・1599)頃

  向羽黒山城の特徴
 一曲輪(本丸) 最高所の実城(みじょう)と呼ばれのが一曲輪(いちのくるわ)です。舗装道路から上の部分には、長さ広さ50m以上の平が3段あり、北
側に正門の大手口(おおてぐち)があります。門跡は回りの平場より一段低くなる埋門(うずみもん)形式となります。平場には、川原石の礎石(そせき)を伴った建物跡が点在しすることから、蒲生氏郷以降に改修(氏郷以前は掘立柱建物)されたことが分かります。駐車場を登ると遊歩道の南には、長さ約70mの斜面を縦に掘った幅8mの竪堀(たてぼり)と、竪跡の両側に高さ約1mの二重となる竪土塁(たてどるい)があります。遊歩道北側には、深さ約5mの竪堀(たてぼり)と、水の無い幅約10mの横堀(よこぼり)、高さ約5mの土塁が屈曲してあります。自然地形を利用した虎口(小さく造るのが良しとされ「小口(こぐち)」と呼んだが、縁起を担ぎ虎の字を充てた)があります。虎口は、外桝形(桝(ます)の形をしていることから桝形といい、土塁が飛び出しているのが外桝形。内に引っ込んでいるのが内桝形)というの形式になっています。
 頂上部分の曲輪は、高さ約1mの直線的な土塁と、武者走りの役目をする幅約2mの横堀が北、西、南を囲んでいます。外桝形の虎口を2ヶ所通ると頂上の一曲輪になります。南北約40m、東西約25mの広さで、高さ約50cmの土塁が廻ります。北側は土塁が横にあるだけの平面的な虎口、南側には葦名時代の石積石垣で造られた、内桝形の虎口があります。曲輪の中央には、大きな自然石があるため規模の大きな建物は建てられず、見張り用の2階建クラスとなる建物があったとみられます。
 一曲輪の南には、幅約15mから20m、深さ約7mという城内で最も大規模な堀切(尾根をV字に切って容易に侵入できないようにした空堀)と、堀切に連続する下の斜面には縦方向に掘った竪堀と縦方向に築いた竪土塁が斜面横方向の攻撃に構えています。一曲輪は、低い土塁や虎口の特徴から盛氏から義広時代に築かれ、政宗が改修し、直線的な横堀と土塁は、蒲生氏郷が大改修し、南側の大きな堀切と竪堀は、上杉景勝が慶長3・4年(1599)に大改修したようです。
 二曲輪(二ノ丸)
 向羽黒山城の中で、実質的に中心となる曲輪(くるわ)。中城(なかじょう)とよばれ、東西約60m、南北約40mあります。川原石を使用した礎石建物がありましたが、東半分が公園と水道工事で削平され、南側にまとめられています。ました。四阿(あづまや)が整備され、黒川(会津若松)がよく見えました。曲輪は、複雑に円形に配置され、西側に二曲輪に入る大手虎口があります。大きな山石を積んだ石垣から蒲生氏郷が築いたようですが、石垣は破壊されています。『会津要害禄』の付図と推定される『本郷邑古塁之図』には「盛氏居所」と書かれ、この城では中心となる場所のようです。北側には、お茶屋場がありました。ここには、水ノ手(みずのて)もあり、複雑に虎口や土塁、横堀、竪堀があり、盛氏から葦名氏累代・伊達政宗・蒲生氏郷・秀行・上杉景勝までの遺構があります。
 三曲輪(三の丸)
 二曲輪の西に位置するのが三曲輪(さんのくるわ)。一部が重機により削平され公園に整備された部分です。葦名・伊達時代の遺構が点在しているようです。二曲輪と三曲輪の間には、幅約30m、深さ約15mの大規模な堀切(ほりきり)と竪堀(たてぼり)があります。大規模な竪堀と竪土塁は、この城を全体的に囲むもので、上杉景勝が大改修した時期の遺構とみられます。
 十日町大手口、伝盛氏屋敷は大きな外桝形
 最終段階の大手口は、北側に面した十日町と呼ぶ位置にあります。内側の二曲輪とは、幅約10mの空掘が廻らされた伝盛氏屋敷と呼ばれる部分です。ここに盛氏の屋敷があったかどうかは不明で、現在の遺構は大規模な外桝形の虎口です。高さ10mを超える土塁が取り囲み、内側は約40m四方の大きな空間となっています。東側の曲輪との間には、木製の長さ約15mの橋が架けられていました。虎口に敵が侵入しても土塁の上から攻撃し、最終的に持ち堪えられなくなると橋を落とし城内に入れないようにしたものです。大規模であることから上杉景勝の時期に大改修されたと推定されます。慶長6年(1601)には、入口部分が、破城を命じられ、土塁や堀が崩された可能性があります。なお、盛氏屋敷の西側は、上町、坂の下を十日町と呼び、家臣や町人、楽人(がくじん)の屋敷がありました。
 三日町口
 一曲輪の西側にある三日町には、土塁と桝形(ますがた)の虎口(こぐち)で防備された搦手口(からめてぐち)があります。大手に対して、裏口を搦手と呼び、正面に来た敵を、からめて討ち取る意味です。外桝形の虎口は、土塁と堀で区切られ、三日町集落へ続く道の両側に短冊形をした屋敷跡が段々に残されています。三日町口は、一時大手口となっていた可能性があります。大名が新たに城に入った場合、城の正面となる大手口を造り替えることにより、新しい城主としての権威を示す意図もあります。三日町口の外桝形は、土塁と堀で造られていますが、石垣はありませんので、伊達政宗から上杉氏が造ったと考えられます。政宗は葦名氏ほど石垣の技術は進歩せず土塁で造ることを得意としていました。虎口を入るとまた虎口があり、そこは、葦名氏か蒲生氏郷による石積石垣か石垣で造られています。
 六日町口
 会津本郷町の温泉施設や発電所部分を六日町と呼び、町屋がありました。発電所西側から二曲輪へ入るルートがあります。自然地形を利用した二本の大きな竪堀に挟まれた空間で、盛氏段階の細長い平場と葦名氏末ころの石積石垣の虎口があります。三日町と六日町は、若松に移されています。
 外堀もあった「外構」(そとがまえ)
 城の北側水田には、「外構」と呼ばれる外堀がありました。永禄11年(1568)に書かれた『巖館銘(がんかんめい)』に、城には「実城(本丸)・中城(二ノ丸)・外構」があり、周辺には二千余家あったと書かれています。『本郷邑向羽黒古塁之図』には、北側に堀か土塁が描かれています。山裾には高さ約4mの土塁の一部が残っています。
 城下町向羽黒
 城の周囲には、三日町、六日町、十日町、上(うわ)町、高田町、本郷町、宗頤(そういん)町、野伏(のぶせ)町、阿賀川の対岸には荒(新)町などの町名や字名があります。いずれも短冊形の地割りとして明治15年の字限図に描かれています。数字の付く町名からすると、市(いち)が立っていました。
 戦国時代、葦名盛氏と同世代の上杉謙信(けんしん)は、居城「御館」と山城の「春日山城」が約6km、武田信玄の居城「武田氏館」と山城の「要害山城」は約4km、伊達政宗の居城「米沢城」と山城の館山城は約4km離れ、葦名氏の居城「黒川城」と、山城の「向羽黒山城」は約6km離れています。戦国時代は、居館と山城の双方築いています。領主の城だけでなく、山間部の豪族も双方築いています。

                      城の年代的変化
T期  葦名盛氏の築城(1561)以前 
観音山を主にある在地豪族の山城で、簡単な防御機能とのろし台などの通信機能をもつ城跡。
U期a 築城期 永禄4年(1561)〜永禄11年(1568) 
葦名盛氏が8年かけて築城した時期。この城では盛氏段階の遺構が最も広範囲に残されています。
U期b 発展期 永禄12年(1567)〜天正8(1580)
 城下町も整備され、画僧雪村も滞在し、表向きの政治機能を黒川城に残し、向羽黒町が誕生して、この城が最も賑わいを見せた時期です。
U期c 停滞期 天正9年(1581)〜天正11年(1583)
 葦名盛氏が死去したことにより、城本体の防御機能は残し、町屋が黒川に移されます。
V期a 修築前期 天正12年(1584)〜天正17年(1589)
 天正12年には、伊達勢が喜多方市関柴に進攻、翌年には裏磐梯の桧原に政宗が桧原城を築き、葦名と伊達との緊張状態が始まります。葦名氏は、天正12(1584)に柏木城を築き、天正13年(1585)には猪苗代の鶴峯城(弦峯城)を修築し、大塩峠には鹿垣を築き政宗に備えます。葦名氏の最終拠点である向羽黒山城も改修の手が加えられます。
V期b 修築後期 天正17年(1589)年〜天正18年(1590) 
伊達政宗が会津の領主となった時期、『伊達天正日記』にあるように、黒川城の改修や石垣の普請、要害の普請場へ出かけています。要害は、向羽黒山城のことです。政宗の向羽黒山城改修は、天正17年6月から2月までの9ヶ月を要しています。終了後に黒川城の改修を始めます。三日町口などが当時の虎口と推定されます。
W期a 最終前期 天正18年(1590)〜文禄4年(1594)
 蒲生氏郷が黒川城を大改修した時期で、若松城に入る前に向羽黒山城を改修し、使用しています。文禄4年5月には、秀吉から7城を除き、破却を命じられ、この城も破却された可能性があります。氏郷は、この城を天正18年から文禄元年(1592)5月までの2年半で改修しています。整備が終了した文禄元年6月1日からは、若松城と城下の整備に入り、文禄2年6月15日には天守閣が完成します。若松城
W期b 最終後期 文禄4年(1594)から慶長5年(1600)
 慶長3年に越後から上杉景勝が会津に入り、まず向羽黒山城を朝鮮半島の前田利家から教わった熊川倭城の石垣積と城の縄張りを参考にして一曲輪部分はそっくりに大改修をし、伊達郡桑折町の西山城西舘を熊川倭城の石塁と同じに積みます。新たに府城として、聚楽第や毛利輝元の広島城を真似て神指城を築きますが、完成しませんでした。それは、徳川家康の会津進攻に備え、会津周辺の城を改修するからです。至堂峠、馬入峠、栃木県日光市藤原町などの山岳部には防塁を築き備えていました。影勝は、慶長3年(1598)3月から慶長5年1月までの2年間でこの城を大改修を終わらせ、2月からは神指城の築城に着手しています。関ケ原後は、慶長6年に1年間かけて神指とともにこの城も破却され、景勝は秋に米沢へ移ります。神指城
                                                          文責 石田明夫

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向羽黒古塁之図
羽黒古塁之
  
 交通手段
会津若松ICからR49線、R118西バイパス経由、車で約20分。
会津美里本郷の街中、観光インフォメーションセンター前を東へ、車で坂道を登り約5分。
大型車は通行不可。舗装道路、P、トイレあり。午後6時閉門。
遊歩道はありますが、登城ルート上には整備されていません。
説明板はありませんので、このホームページか、インフォメーションセンターでパンフレットを手に入れてください。夏場は、マムシがいますので気をつけてください。
西側上り口には、宗像窯や会津藩の窯跡があります。 インフォメーションセンターでぜひ会津本郷焼きの資料見学と、コーヒー。軽食をどうぞ。Pあり、帰りには会津本郷焼きの見学。白鳳饅頭をお土産にどうぞ。
                                                             図・文責 石田明夫
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