石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
若松城・鶴ヶ城 

 黒川城、若松城、鶴ヶ城、会津若松城
 若松城とは国史跡の名称で鶴ヶ城は通称名、会津若松城とは江戸時代の名称。
 所在地 福島県会津若松市追手町1-1 会津若松市所有。天守閣は、昭和40年に鉄筋コンクリートで復元されたのです。
 天正19年(1590)8月に会津に入り、文禄(ぶんろく)2年(1593)蒲生氏郷(がもううじさと)が伊達政宗の居た黒川城(くろかわじょう)を 7層の天守閣を持つ城へ大改修しました。
 磐越自動車道会津若松ICから20分 会津若松駅からバス15分
 管理は、会津若松市観光ビューロ 0242-27-4005
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本丸(天守閣の南東側)は、競輪場となったので、2メートル掘り下げられ東側の一部を除き遺構がほとんど残っていません。
蒲生氏郷時代は、黒色で瓦の軒先には金箔が貼られていました。白くしたのは、江戸時代に建てかえられてからです。
天守台南側には空間があります。当初は天守台いっぱいに建っていましたが、慶長16年の地震で傾き、建て替えられ天守閣が小さくなりました。
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  取壊し前の鶴ヶ城・個人蔵
蒲生忠郷時代の若松城・個人蔵
元和(げんな1620年)頃  

 黒川城、鶴ヶ城、若松城、会津若松城の歴史
 黒川城、鶴ヶ城、若松城、会津若松城とは、鎌倉時代、会津の領主だった葦名氏に始まります。4代泰盛(やすもり)の頃に葦名氏は領地支配を強化し、会津入りします。小田山山ろく(宝積寺が最初の館の可能性あり)か小田垣(小高木)に館を構え、いざという時に立て籠もる詰めの城・山城として「小田山城」を築きます。南北朝時代、会津周辺は南朝方に取り囲まれていたものの一貫して北朝方の拠点として貫きます。文和3年(1354)には、『旧事雑考』『富田家年譜』によると、7代直盛(なおもり)が小田垣に館を構え小田山城を築き、現在の若松城付近にも黒川城を築きます。(全国的にも弘安の役以降、在地支配が強くなり、南北朝時代、会津周辺は南朝方であり、北朝の拠点として、館や城がそれまで無かったとは考えられない。南北朝時代の山城が青木山山頂にあります) 直盛は、康暦元年(1379)会津に入り、飯寺の館から黒川城と町の整備のため永徳2年(1382)に小館(市内本町)に移り、城下整備の指揮をとります。至徳(しとく)元年(1384)黒川城の大改修が終了しし、「鶴城」(鶴ヶ城の名の始まり)と呼び、鎌倉持ってきた稲荷神社(御神体が市内馬場町の鶴ヶ城稲荷神社にあり)を祀ります。蒲生忠郷時代まで、三の丸に稲荷神社を祀る稲荷丸がありました。『塔寺長帳』によると天文(てんぶん)7年(1538)、黒川城下で大火があり、城も焼失します。天文13年(1544)には、5年の歳月をかけ、黒川城の大改修が完成し、ほぼ現在の若松城の大きさとなります。当時は、東が大手口で、西が搦手(からめて、裏口)でした。
 永禄4年(1561)には、16代盛氏が、本郷に、立て籠もる詰めの城を小田山城から「向羽黒山城」へ移し、永禄11年(1568)に7年の歳月をかけ完成『旧事雑考』させます。 
 天正17年6月5日、伊達政宗の会津侵攻により、400年続いた葦名氏が会津を去り(葦名氏は茨城県の江戸崎城から慶長6年(1601)には秋田県角館へうつります)ます。伊達政宗は、まず、山城の向羽黒山城を半年かけて改修し、天正18年2月からは、『伊達天正日記』によると黒川城の改修を始め、町人までも動員し、石垣を積んほど大改修をしています。伊達政宗の毒殺事件は、『伊達治家記録』によると西出丸にあった西御殿で起きています。
 豊臣秀吉は、天正18年(1590)8月、政宗に代わり蒲生氏郷を会津に据えます。氏郷は、ます、最後の砦となる山城の向羽黒山城を2年間かけて大改修し、終了後、文禄元年(1592)から黒川の城下と城の大改修に着手します。文禄2年(1593)には天守閣が完成します。『新編風土記』によると、氏郷は当初広島城のようにしようとしましたが、徳川家康の「塀を長く回す城よりは、城を堅固にし、速やかに戦いに備えるべし」という意見を取り入れ、葦名氏・伊達政宗の黒川城を改修することにとどめました。しかし、高石垣と天守閣というそれまでに無い東北の城となりました。蒲生氏郷が亡くなると蒲生秀行が跡を継ぎます。しかし、力不足のため、秀吉から国替えを命じられ宇都宮へ移ります。慶長3年(1598)には越後の春日山城から上杉景勝が120万石で入ります。景勝は、はじめに領内の道路や橋、支城の整備、
最後の砦となる向羽黒山城を2年間かけて大改修し、朝鮮半島の熊川倭城に似た城に改修します。そして、蒲生氏郷も現在の若松城の地では不利で経済発展がしにくい事を、景勝も同じであり、氏郷が希望した広島城に似た新城の「神指城」築城を慶長5年(1600)に着手します。『塔寺長帳』には13村を移転して事が書かれています。しかし、景勝は石田三成方であったことから家康の標的になり、4万5千の大軍で栃木県の小山まで進んできますが、三成が兵を上げたので、家康は西に戻り関ヶ原の戦いなったのです。この時、景勝は国境に大規模な防塁を多数築いています。神指城は、石垣や門まで造られますが、完成することなく、慶長6年に破城されます。そして、宇都宮から再び蒲生秀行が会津に入り、若松城を居城とするようになります。秀行や3代忠郷は、石垣や堀を含め城の改修を進めていますが、慶長16年(1611)には、会津盆地西部を震源とする大地震が発生し、城の石垣や天守閣が傾いています。秀行は、地震の翌年、死去しています。
 蒲生氏に変わり、加藤嘉明が四国の松山城から40万石で入ります。加藤氏は、子の明成とともに、西出丸や北出丸、廊下橋脇の高石垣、天守閣の建て直しは加藤氏によるものです。保科・松平氏になっても石垣は何回も崩れ、幕府に伺いを立てて幕末まで、いろいろな部分を直しています。
歴代領主・藩主編
最初の殿様
 不明です。会津最初の領主は、1189年に佐原義連が最初となります。佐原氏は葦名氏(あしなし)と名のるようなり、4代泰盛(やすもり)頃に会津に落ち着き、本拠地の城館を築きます。黒川城としては、7代葦名直盛(なおもり)が整備しています。
歴代の殿様
   佐原氏(さわらし)・葦名氏(あしなし) 1189年〜1589年(400年)、3代目から葦名となる
    ※葦名氏の系図は諸説あり、確定しない部分(8代〜11代)があります。
     初代・佐原義連(よしつら)、2代・佐原盛連(もりつら)、 3代葦名光盛(みつもり)
     4代・葦名泰盛(やすもり)、 5代・葦名盛宗(もりむね)、 6代・葦名盛員(もりかず)
     7代・葦名直盛(なおもり)、 8代・葦名詮盛(あきもり)、 9代・葦名盛政(もりまさ)
     10代・葦名盛信(もりのぶ)、11代・葦名盛久(もりひさ)、12代・葦名盛詮(もりあき)
     13代・葦名盛高(もりたか)、14代・葦名盛滋(もりしげ)、15代・葦名盛瞬(もりきよ)
     16代・葦名盛氏(もりうじ)、17代・葦名盛興(もりおき)、18代・葦名盛隆(もりたか
     19代・葦名亀若丸(かめわかまる)(隆氏・たかうじ)、20代・葦名義広(よしひろ)(盛重・もりしげ)
   伊達氏(だてし) 1589年〜1590年(2年)
     伊達政宗(まさむね)     
   蒲生氏(がもうし) 1590年〜1598年(9年)
     初代・蒲生氏郷(うじさと)、2代・蒲生秀行(ひでゆき)
   上杉氏(うえすぎし) 1598年〜1601年(4年)
     上杉景勝(かげかつ)・執政が直江兼続
   再蒲生氏(さいがもうし) 1601年〜1627年(27年)
     2代・蒲生秀行(ひでゆき)、3代・蒲生忠郷(たださと)、4代・蒲生忠知(ただとも)
   加藤氏(かとうし) 1627年〜1643年(17年)
     初代・加藤嘉明(よしあき)、2代・加藤明成(あきなり)
   保科氏(ほしなし)・松平氏(まつだいらし) 1643年〜1868年(226年)、3代目から松平
     初代・保科正之(まさゆき)、2代・保科正経(まさつね)、3代・松平正容(まさかた)、
      4代・松平容貞(かたさだ)、5代・松平容頌(かたのぶ)、6代・松平容住(かたおき)、
      7代・松平容衆(かたひろ)、8代・松平容敬(かたたか)、9代・松平容保(かたもり) 
最後の殿様
  9代松平容保(かたもり)です。
最初に石垣を築いたのは
  葦名氏ですが、その遺構は残っていません。伊達政宗は、天正18年(1590)町人を動員して石垣を積んでいます。
天守閣を建てたのはだれか
  蒲生氏郷です。大坂城のような黒い天守閣で7層、黒い瓦、軒先に金箔を張ったもので、天守台の石垣いっぱいに建ってい
ました。後に天守閣を建て直す時に蒲生忠郷や加藤氏が白壁の5層の天守閣にしました。
領主と藩主の墓
  佐原・葦名氏 初代佐原義連は、神奈川県横須賀市の万願寺にあり、供養塔が喜多方市熱塩加納にあります。 市街地
南東の小田山山麓に寿山廟と花見ヶ森廟、東山の天寧に狸(たぬき)ヶ森廟にあります。
  伊達氏、上杉氏、加藤氏 墓はありません。
  蒲生氏 氏郷が興徳寺、秀行が館馬町の弘真院、忠郷が中央二丁目の高巌寺にあります。
  保科・松平氏  初代保科正之が磐梯山麓の猪苗代町土津神社が墓所、2代目以降は市内東山町の
  会津藩主松平家墓所にあります。

戊辰戦争編
戊辰戦争の籠城者数
  5,235人(病人570人、奥女中64人、婦女子575人を含む)
 中には裏切り者がいて、西出丸の外で処刑され、太鼓門と天守台の間にさらされていた者もいました。
殿様はどこに居たか
  表門(鉄門)内にいました。寝るのもここでした。
籠城戦の戦死者はどうしたか
  はじめは、伏兵郭に埋めた。後に帯郭の2ヶ所の空井戸へ投げ入れた。
戊辰戦争の戦死者
  会津藩軍 2,977人死亡。若松城下の2/3が焼失しました。
会津藩の借金
  57万両、今の金額にすると1両9万円で513億円ありました。
両軍兵力
  会津藩軍 正規兵約3,500人、農兵などを加え約9,400人
  新政府軍 約75,000人
会津藩軍と新政府軍の兵器
   会津藩軍 主力はヤーゲル銃(丸弾)
   新政府軍 主力はミニエー銃、スペンサー銃、スナイドル銃(現在の弾の形)
斗南藩の由来と石高
  「北斗以南、皆帝州」から取り、斗南藩と付けた。17,327人が移住しました。
  石高3万石とされましたが、実高は5,000石から7,000石程度でした。
戊辰戦争後編
戊辰戦争後、城はどうなったか
  ○明治6年に陸軍省が建物を売りに出し、町野主水が862円で落札。
  ○土地は明治23年(1893)陸軍省が46に分割して売りに出したが松平容大が一括して2,000円で買いました。
東北初の博覧会
  明治7年建物が取り壊された。取り壊される前に、東北初の博覧会が20日間開催されました。
史跡指定はいつか
  昭和9年(1934)12月28日、国史跡指定 名称は「若松城址」今は「若松城跡」
    鶴ヶ城の知りたいことは  若松城なんでも辞典

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  若松城の本丸図 建物は明治6年と明治11年の図を参考にしています。
若松城の見所・ふしぎ
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太鼓門にある大きな石は「遊女石」と呼ばれているもので、遊女を石の上に乗せて運んだと『新編風土記』にあります。この石は全国的に「鏡石」といい、慶長年間になる長さ3mを越す大きなものと
なり、魔よけの意味があります。
北出丸の石垣に彫られた「文化十四年」(左)に修理した際の銘文。若松城には、西出丸に「天保三年」(右)に彫られた石もあります。また、太鼓門の稲荷神社西側では、「町野長門守」と彫られた石が解体修理の際に見つかりましたが今は見ることができません。文献 『若松城外郭・南町口』遺跡 城内に見られる「×」と彫られた石。加藤氏 以降の時代の石にあり、キリシタン禁制が確立してい時代であることからも、キリシタンとは関係はありません。測量に使用されたものです。
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「野面積」天守台の石垣
石は、川原石も一部にありますがほとんどは、「溶結凝灰岩」で、角の加工が雑なものです。
「打込みハギ」の石垣
慶長年間に蒲生忠郷によって積まれたもの。大きな石の間を小石で塞いだもの。石は「溶結凝灰岩」。下部に野面積の川原石があり、上を積替えたもの。
「切込みハギ」の石垣
石が四角に切り揃えられたもので、すき間も切り揃えた石で埋められています。石はすべて「溶結凝灰岩」で、東山町慶山の石切山から切り出したもの。
                                         
  
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七日町の阿弥陀寺にある本丸内、東側にあった三階櫓 若松城内帯郭鉄門脇には、上杉謙信の御堂が合置かれていました。 太鼓門う内側にある石垣の合坂(あいざか)。武者走りともいいます。
1868年8月23日から9月22日までの籠城戦では、「松平容保」は、最も安全な鉄門内に居まし
た。寝るのもここでした。
若松城の歴史
西暦
年号
領主
出来事
文献
1190年 建久元年 葦名氏 宝積寺にあった小田の館が造られる 会津古塁記
1332年 正慶元年 葦名氏 城内より出火。殿中までの飛び火を防ぐ。 富田家年譜
1354年 文和3年 葦名氏 小田山城が修築され、小高木の館(小田垣館)が設けられ、廓外にも黒川城が設けられる。 旧事雑考・富田家年譜
1384年 永徳4年 葦名直盛 城を修築し、鶴城(鶴ヶ城の名の始め)あるいは小田山城と称す。また郭に稲荷神社(神像は市指定文化財)を祀る。 富田家年譜
1466年 文正元年 葦名盛高 黒川城を改修する。 葦名家由緒考証
1504年 永正元年 葦名盛高 黒川城を修復する。 葦名家由緒考証
1538年 天文7年 葦名盛瞬 黒川大火。黒川城がことごとく焼ける。 新編会津風土記
1544年 天文13年 葦名盛氏 黒川城が大改修される。 会津鑑
1589年 天正17年 伊達政宗 伊達政宗、葦名義広を摺上原で破り黒川城へ入る。葦名氏、会津の領主として400年間の幕を閉じる。 伊達家天正日記
1590年 天正18年 伊達政宗 城の門構えを直し、石垣を積み改修する。政宗の統治は1年2ヶ月。 伊達家天正日記
1590年 天正18年 蒲生氏郷 豊臣秀吉、黒川に入り、蒲生氏郷を城主とする。 旧事雑考
1592年 文禄元年 蒲生氏郷 黒川城を改修し、土塁を高く、堀を深くし、翌年天守閣が建てられる。町並を直し、町を若松とする。蒲生氏の統治は1年5ヶ月。 旧事雑考
1598年 慶長3年 上杉景勝 豊臣秀吉の命により会津の領主となる。統治は3年8ヶ月。 会津旧事雑考
1608年 慶長13年 蒲生秀行 外郭の堀を改修する。 会津鑑
1611年 慶長16年 蒲生秀行 若松城を改修する。その後、同年に会津大地震で天守閣が傾き、石垣が崩れる。 新編会津風土記
1621年 元和7年 蒲生忠郷 三の丸にあった稲荷丸が取り壊される。 新編会津風土記
1628年 寛永5年 加藤嘉明 若松城の改修に着手し、天守閣を建て直す。 新編会津風土記
1641年 寛永16年 加藤明成 若松城を改修し、3mの大石を運ぶ。加藤氏の統治は16年2ヶ月。 会津鑑
1643年 寛永20年 保科正之 松平の祖、保科正之が会津に入る。統治は225年2ヶ月。 家世実紀
1868年 明治元年 松平容保 戊辰戦争で破れ、城を開城する。 若松紀
古塁は「会津古塁記」、富田は「富田家年譜」、葦名は「葦名氏由緒考証」、天正は「伊達天正日記」、旧事は「旧事雑考」、鑑は「会津鑑」、新編は「新編風土記」、家世は「家世実紀」、若松は「若松市史」さらに詳しい年表は会津史年表のページへ
                                                   文責 石田明夫 
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