石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 東日本で、唯一の天目茶碗を焼いた可能性が高い大窯(おおがま)が、福島県会津若松市一箕町の会津大塚山にあります。この山は、4世紀中頃の全長114mの前方後円墳があることで知られている国史跡「会津大塚山古墳」が位置しています。高さ約30の独立丘陵で、そこには、前方後円墳の他に、横穴墓群、円墳群、12世紀後半の経塚、戦国時代の山城跡と、市街地に隣接する複合遺跡の里山なのです。その南斜面に会津大塚山窯(あいづおおつかやまよう)があります。瀬戸市史の大窯編年では、1590年から1600年の大窯編年4段階の前後の時期で該当するようです。そのことから、窯を築かせたのは蒲生氏郷が最も有力です。また、出土した製品から、富山県の越中瀬戸窯に最も近いものです。大窯は、織田信長・豊臣秀吉の瀬戸・美濃窯、徳川家康の静岡県志戸呂窯、前田利家の越中瀬戸窯、会津の会津大塚山窯だけなのです 窯跡は、1基のみと推定され、短期間で操業を停止ししているようです。この窯の製品は、会津若松市内の城下町、東高久遺跡、上吉田遺跡、三春城下で出土しています。
窯跡の位置 会津若松市には、古代から中世にかけて225基以上の窯跡が存在し、大規模な生産をしていた会津大戸窯跡あります。窯跡の西には、日本海の新潟市まで流れる阿賀川が位置しています。川の西側対岸には、福島県を代表する焼物町の一つである会津本郷町がある。現在、窯元16軒が陶器と白磁を焼いている。会津では、会津大戸窯跡が14世紀前葉に操業を停止してから、17世紀中葉に会津本郷窯が生産を開始するまで、陶器の窯は存在しないと考えられていました。市街地北東に位置する標高296.6mの大塚山の丘陵斜面に、会津大塚山窯跡があります。窯跡の南には市道が通っています。市道が建設される以前の昭和40年代に、窯道具を採集していたが、年代や窯の性格を解明するまでには至っていませんでした。平成7年に、近世初頭の窯跡として確認し『会津本郷技術技法』(石田:1996)に、窯の存在をはじめて紹介し、出土した遺物の詳細は、「会津大塚山窯」(石田:1998)で明らかになったのです。特徴から織豊時代に属し、大窯の可能性が強く、東日本では最も古い近世窯であることが判明しました。平成9年には、愛知県瀬戸市で瀬戸市埋蔵文化財センター主催の企画展「瀬戸・美濃系大窯とその周辺」が開催され、全国的にも注目すべき存在となり、一般に知られることになりました。この窯跡の製品は、遺跡からも出土していることが「会津のやきもの」(石田:2000)で紹介され、技術系譜については「近世会津焼の編年的予測T」(石田:2002)で述べています。同時期、蒲生氏郷の若松城改築に伴い、文禄元年(1591)に小田瓦窯跡で黒瓦の生産が開始されています。その後、黒瓦は、会津本郷窯でも焼かれるようになります。会津本郷での陶器生産は、会津松平家の祖、保科正之が、会津本郷窯で赤瓦への生産転換開始とともに、正保二年(1645)に開始されたとするのが一般的でした。この窯の存在は、非常に大きなものなのです。
会津大塚山窯の年代 窯跡は、発掘調査が実施されていないことから、出土遺物や窯跡の構造も含め不明な点も多い。そのため窯の操業年代など、正確には解明されていません。また、物原が市道の建設に伴い、現在ほとんど存在しないため遺物の出土量は窯道具が多く、陶器はわずかとなっているからです。窯は、南斜面の中間部分に位置し、斜面の傾斜は、30度近くある急な場所で、焚口部分だけが平坦となっています。採集された遺物は、雑木と笹薮の中から表面採集された。遺物は、窯跡の焚口と、前庭部の狭い範囲から出土しています。出土遺物の種類は、匣鉢(さやばち)、ヨリ輪などの窯道具。天目茶碗(てんもくちゃわん)、丸碗、折縁皿(おりふちざら)などの陶器破片。そして窯壁です。天目茶碗は、鉄釉が掛けられた口縁部や底部高台の特徴から、瀬戸・美濃大窯編年の天目茶碗T類、4段階の前半から後半に最も近いものとなっています。碗は、口縁部と底部があります。碗は、小破片であることから口径は、計測復元できなかったもので、体部は、直線的に立ち上がっています。碗の底部は、高台部分を除き、鉄釉が掛けられ、高台部分がハの字に外反しています。灰釉折縁皿は、底部破片で、台形状の高台が付けられている。内面には、菊花の印花文があり、体部との接合部分には溝跡が認められる。大窯編年(藤沢:2001)では、1段階から2段階に印花が認められるものだか、その後徐々に減少し、4段階ではほとんど認められなくなります。ただし、越中瀬戸窯跡では、4段階でも顕著に印花文が残る。会津大塚山窯跡の製品は、越中瀬戸窯跡の製品に最も近いようです。香炉は、口縁部破片で、鉄釉が掛けられ、体部は直線的に立ち上がり、口縁端部が内側に引出されたものです。 窯道具は、擂鉢の重ね焼に使用したドチ、小型の碗や天目茶碗、皿の焼成に使用したヨリ輪、碗や天目茶碗を中に入れて焼いた匣鉢です。擂鉢は、今のところ窯跡や消費遺跡からの出土は確認していません。出土した遺物のほとんどは、これら窯道具です。遺物の胎土は、製品は、細かな胎土であるが、瀬戸・美濃窯より黒くてやや荒く、やや青みが強いもので、鉄分が多いことから黒い斑点が出るのが特徴です。出土遺物の特徴から、大窯編年の4段階の前半から後半の範疇に収まるようで、1590年から1610年の間に位置づけられ、灰釉印花皿の特徴から、越中瀬戸窯跡の影響が認められるようです。 流通 この窯の製品は、蒲生の領地であった三春町の三春城下と、慶長16年(1611)に集落が移転した会津若松市の東高久遺跡からそれぞれ天目茶碗が出土しています。会津若松市の上吉田B遺跡からは、灰釉折縁皿が出土しています。瀬戸・美濃窯の製品と異なるのは、底部高台が台形状をし、胎土が会津大塚山窯跡の製品は粗く、鉄分が多いことから黒い班点が顕著に認められることです。出土資料から、少なくとも、慶長16年以前に生産が開始されています。また、遺跡出土の年代が、大窯4段階の前半と後半の時期にほぼ収まることから、窯跡の遺物と同じ時期のようです。出土する遺物の量や、製品の流通からすると、窯跡は1基だけと推定され、操業期間も短期間に限定されるようです。 時代的背景 この窯跡を築かせた人物は、蒲生氏郷、蒲生秀行、上杉景勝の3人が年代的に予想されます。その中でも、最も可能性が高いのは、蒲生氏郷です。氏郷は、利休の七哲人ともいわれた茶道に造詣の深い人物である。天正19年(1591)に千利休が自刃した後、子少庵を会津領内にかくまったとされ、少庵ゆかりの床柱が使用された茶室麟閣は、若松城本丸に現存します。氏郷の九州肥前への出兵やその後の京都や病気のことからすると、文禄2年(1594)11月に、京より「天下一茶碗焼楽、吉左衛門(楽常慶)」(楽家文書)が会津の氏郷と小庵を訪ねたようで、須賀川市長沼、郡山市福良経由で若松に入っています。常慶は、秀吉の許し状をもって来たと考えられるもので、茶道や焼物で、当時第一人者であったことから、会津大塚山窯の指導にあたった可能性が高い。また、越中瀬戸窯との関係は、氏郷と前田利家との深い関係から職人の移動を含め、技術伝播を受けたものです。文禄元年(1592)に若松城を東北初の天守閣を備えた近世城郭に大改修した時、石垣職人を金沢の穴太衆から、奥泉らを派遣(穴太家文書)してもらっていることからもわかります。また、氏郷と利家は豊臣恩顧の大名として親しく、氏郷の娘(秀行の姉)を利家の次男利政に嫁がせています。利政は能登国の領主で、越中瀬戸窯は、利政の兄利長の領地にあります。また大窯は、織田、豊臣の大名でも徳川家康と前田利家という限った人物の領地のみに、大窯が分布していることからも、氏郷が利家から親しい間柄を利用して、石垣職人とともに大窯の職人を呼び寄せたものと考えられます。氏郷が文禄4年(1595)に死去した後、会津大塚山窯跡は、蒲生秀行、そして上杉景勝まで関わった可能性が一部にあます。上杉景勝は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、石田三成方に付いたことから国替えとなり、120万石から1/4の30万石に減封され、米沢に移されています。景勝は、徳川家康や前田利家とともに秀吉政権時は、五大老に任じられていた有力大名でもあります。そのため、窯を築かせた可能性も少しあります。米沢には、会津大塚山窯跡に後続する戸長里窯跡が存在します。この窯は、唐津などの系統が入ることから会津大塚山窯とは技術系譜が異なるり、福島市の岸窯(上杉氏の領地)の系統も戸長里窯跡の系統となっています。いずれにしても、東日本の焼き物の中では、古代・中世の会津大戸窯、後続する近世の会津本郷窯・相馬窯とともに、重要な窯跡なのです。 文責 石田明夫 参考文献 石田明夫・小林等 1996『会津本郷技術技法』会津本郷焼事業協同組合 石田明夫 2000『会津のやきもの 会津若松市史14』 会津若松市 石田明夫 1998 「会津大塚山窯」『福島考古第39号』福島県考古学会 1999『会津若松市埋蔵文化財分布調査報告書』会津若松市教育委員会 2002「近世会津焼の編年的予測T」『福島考古第43号』福島県考古学会 萩生田和郎・石田明夫 2000 「上吉田遺跡B遺跡」『県営ほ場整備発掘調査報告書U』会津若松市教育委員会 藤沢良祐他 1990『尾呂』瀬戸市教育委員会 1993『瀬戸市史 陶磁史篇四』瀬戸市史編纂委員会 1997『瀬戸・美濃系大窯とその周辺』(財)瀬戸市埋蔵文化財センター 2001『戦国・織豊期の陶磁器流通と瀬戸・美濃大窯製品』(財)瀬戸市埋蔵文化財センター
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