石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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蒲生氏郷、会津の切支丹(キリシタン)
切支丹大名 蒲生氏郷
 会津の切支丹の原点は、天正18年(1590)8月、伊達政宗に変わって会津の領主となった蒲生氏郷(がもううじさと)に始まる。氏郷は、戦国時代末期の武将で、弘治(こうじ)2年(1556)近江国蒲生郡日野城主蒲生賢秀の長男として生まれた。幼名を鶴千代と称し、永禄11年(1568)13歳の時に、織田信長の人質となり、岐阜城に入った。永禄12年(159)14歳の時、信長の部下として、父賢秀と共に初陣に立ち、伊勢大河内城の戦いで大きな手柄を立てた。信長の信頼も厚くなり、信長の下でさまざまなことを学んだ。元亀(がんき)元年(1582)元服して忠三郎賦秀(たださぶろうやすひで)と改め、信長の娘、冬姫を妻とした。信長が、天正(てんしょう)10年(1582)6月、本能寺の変で倒れた後、信長の一族を守り、日野城に立て籠もっている。豊臣秀吉に従い名を氏郷と改める。天正12年(1584)4月、氏郷は、反乱を起こした北畠氏の伊勢国嶺城・加賀井城を攻め、その戦功により伊勢松ヶ島へ12万石で移封となった。天正16年(1588)には、新たに松阪城を築き城主となった。その時、多くの日野商人が氏郷に従い、松阪に移住した。
 天正18年(1590)の、豊臣秀吉による小田原後北条氏攻めでは、後北条氏が小田原までの重要拠点としていた伊豆(静岡県)の韮山(にらやま)城を攻略、そして小田原包囲で功績があった。その年の8月には、豊臣秀吉とともに3千人の武将と供に奥羽(おうう)仕置きのため会津若松に、先頭に立って入っている。そこで、秀吉から会津42万石へ移封を申し渡される。後に領地は、検地や加増により、92万石へ増加している。加増により会津拝領を命じられるが、京都や大坂からは遠いことから、悲観したといわれている。 文禄元年(1592)黒川を改め、故郷の日野、若松の森にちなみ若松とし、城と城下の整備に着手し、翌文禄2年(1593)肥前(佐賀県)名護屋城(なごやじょう)の天守閣を模したともいわれる七層の天守閣が完成した。城下には、移住者のために日野町が設けられ、職人も多く招いた。漆器、ろうそく、木地、焼き物などの基礎をつくり、その産物は、日野や松阪から連れてきた近江商人によって全国に販売され、会津に大きな経済効果を生み出している。 氏郷は、武道ばかりだけでなく、文人でもあった。茶道では利休の七哲(しちてつ)の一人に数えられ、千利休が、秀吉の怒りにふれ亡くなると、その子、少庵(しょうあん)を会津領内に保護し、その後の茶道三千家への道筋をつくっている。
 文禄4年(1595)、秀吉による朝鮮征伐の文禄の役で、九州肥前名護屋で在陣していた氏郷は、病に倒れ、京都の蒲生邸において40歳で亡くなる。その死は、医者の曲直瀬道三(まなせどうさん)によれば、血を吐き、顔は青く、身はやせ細ったという。一説には、豊臣秀吉が上杉景勝や石田三成と図り、毒殺したと噂された。辞世の句は「かぎりあれば 吹かねと花は 散るものを 心みしかき 春の山風」と詠み、悲観したようすが伺える。

会津の切支丹
 氏郷は、高山右近(たかやまうこん)や前田利家とも親しく切支丹大名としても知られ、南蛮(なんばん)文化を取り入れた。若松城内には、国重文で神戸市立博物館とサントリー美術館に分かれて所蔵されている「泰西王侯騎馬図」が幕末の戊辰戦争まで城内にあり、その後、新政府軍の手に渡っている。城下にはイタリア人宣教師を家臣とし、ローマへ使節団を送ろうともしたという。氏郷の洗礼名は「レオ」といった。天正18年(1590)には、巡察視のヴリニアーノが帰国する際には、「デウスが唯一の神であると言い」人々を驚かせたという。城下には、教会が建てられ、氏郷の親戚で「パウロ・モーアン」(蒲生郷安で米沢14万石の城主、または氏郷の妹を妻とした小倉作左衛門但馬1万石城主)ら重臣の中にも切支丹が多かった。また、盲人の高い位のジョアキムも信者であったという。猪苗代にはセミナリオ(神学校)が磐椅神社南に建てられ(その跡には神社が建てられている)たど盛んであった。 江戸幕府は、慶長19年(1516)になると、切支丹禁止令を公布し、全国的な弾圧を始めた。元和元年(1615)には、スイット会のアンゼリスが東北各地を回って切支丹を訪問し、励まし続けた。元和9年(1623)のゼスイット会の報告によると、仙台、若松、秋田には宣教師4人が住んでいたという。そのころ、山間部の高山や農村では、盛んに切支丹が信仰され、弾圧にも関わらず、最盛期を迎えていた。元和9年に3代将軍家光に変わると、弾圧がいっそう厳しくなる。そんな中、寛永3年(1626)にサンフランシスコが来日し、長崎から酒田、会津、仙台へ布教に当たっているが弾圧はいっそう厳しくなり、寛永3年(1626)には、コスモ林が若松で斬首されている。寛永4年(1627)に加藤嘉明(かとうよしあき)が藩主となり、さらに厳しくなった。寛永6年(1629)には、ジュアン山ら15人が捕らえられた。寛永12年(1635)には、家臣の横沢丹波らが捉えられ、逆さづりにされている。そのときまで西洋人が住み同じく捉えられている。その処刑場所は、会津若松市神指町にキリシタン塚として残っている。寛永15年(1638)島原の乱が鎮圧されるのと同じく、会津での布教活動は、表向き行われなくなった。 現在、会津若松市内には天子神社と名付けられた教会の跡が3ヶ所ある。また、支城の猪苗代でも教会(現在は天子神社が建つ)が建てられ、天子のケヤキがあり、約8割が切支丹の信者となった。若松では3割が切支丹の信者になったといわれる。市内の飯盛山には、隠れ切支丹が掘ったと推定される長さ約50mの洞窟があり、寛永5年(1628)の年号が刻まれている。 加藤嘉明の代になると、切支丹は踏み絵や改宗を余儀なくされた。なかには、信仰を貫き、貼り付けや火あぶりとなった者が多かった。寛永12年(1635)以降、会津では、隠れて信仰するようになる。それらは隠れ切支丹と呼ばれ、目立たないような十字架を掘り込んだ石造や墓を多く作っている。その信仰は、江戸時代を通じて信仰されたところもあり、山奥の南会津郡田島町福豆沢(ふくめざわ)には、常楽院境内に観音堂が建てられ、本尊としてマリア観音がひそかにまつられていた。その地区では、明治時代に入ると会津で最も早くカトリックの教会が建てられ、現在でも信者が住んでいる。また、会津各地にマリア観音と称する石造や、十字架をかたどった模様の入る地蔵や石造が点在している。福豆沢のマリア観音や柳津町久保田のマリア観音、会津若松市門田町(もんでんまち)宝積寺の切支丹地蔵、下郷町中妻の切支丹墓などが知られている。
tajima komame arakuda
福島県南会津郡田島町福豆沢にあるマリア観音 石像 福豆沢のマリア観音は江戸時代、子安観音としてまつられていた。 会津若松市町北町上荒久田、湊町にも天子神社があり、蒲生時代は教会が建てられていた。
oda kubota komame  iimori
会津若松市宝積寺入口の切支丹地蔵。錫杖(しゃくじよう)に十字が彫られている。 柳津町久保田のマリア観音、江戸後期に作られた。手に十字を持つ。 隠れ切支丹が住んでいたことから、山奥の福豆沢では、明治時代会津で最初に教会が建てられた。マリア観音堂の西に建つ。  飯盛山山頂にある隠れキリシタンの洞窟。長さ50メートル
ina inawa
猪苗代セミナリオ跡
猪苗代の天子神社
kiri simo
神指町のキリシタン塚
下郷町中妻のキリシタン墓

歴代 会津蒲生家

初代 蒲生氏郷(がもううじさと) 幼名、鶴千代。 夫人は織田信長の娘、冬姫
弘治2年(1556)近江国日野城主、蒲生賢秀の長男として生まれる。
永禄11年(1568)13歳の時、小田信長の人質となり、岐阜城に入る。
天正10年(1582)本能寺の変で、日野城に信長の一族を守り立て籠もる。
天正12年(1584)伊勢の北畠氏攻めの功績で、伊勢松ヶ島へ12万石で移封。
天正16年には、松阪城を築く。
天正18年(1590)8月、豊臣秀吉とともに黒川(若松)へ入る、会津92万石。
文禄元年(1592)黒川を若松と改め、城下町を整備。
文禄2年(1593)若松城天守閣が完成する。
文禄4年(1595)肥前(佐賀県)の名護屋城で病に倒れ、京都の蒲生邸で亡くなる。
文禄5年(1596)興徳寺に無縫塔(卵形)が建てられる。
○ 五輪塔(高さ2.13m)の年代は不明。
○墓は、京都大徳寺の黄梅院(昌林院が廃寺に付)にある。会津若松興徳寺には遺髪を埋めた。
○戒名「昌林院殿参議従三位高岩忠公大禅定門」
○武道だけでなく、文人であり、茶道では千利休の七哲人の1人に数えられている。
○ キリシタン大名。洗礼名「レオ」
○辞世の句「かぎりあれば 吹かねと花は 散るものを 心みしかき 春の山風」

2代 蒲生秀行(がもうひでゆき) 幼名、羽柴鶴千代。 夫人は徳川家康の三女、振姫
 天正11年(1583)蒲生氏郷の嫡男として生まれる。
文禄4年(1595)氏郷が死去すると、家督を継ぐ。
慶長3年(1598)氏郷の死後、美人で知られた冬姫が秀吉の側室となることを拒否したことと、家中の不和、病弱から宇
都宮18万石へ移封。
 慶長6年(1601)関ヶ原の功績で、会津へ再び60万石にて入る。
 慶長13年(1608)若松城、若松城外郭を改修する。
 慶長16年(1611)慶長の大地震。
 慶長17年(1612)5月14日、病で亡くなる。墓は、館馬町の弘真院。
 ○鞘堂の建物は県指定文化財、墓は市指定史跡。
 ○墓は、五輪塔(2.7m)
 ○松本允殿館跡に寺がある。通称「館の薬師」

3代 蒲生忠郷(がもうたださと) 幼名、亀千代
慶長7年(1602)蒲生氏郷秀行の嫡子として若松城下で生まれる。
慶長17年(1612)、父秀行が死去したため60万石の家督を継ぐ。
寛永4年(1627)1月4日家臣岡重政の横暴による心労と、疱瘡で25歳にて亡くなる。
○ 寛永4年(1627)五輪塔(高さ4.23m)が建てられる。
○徳川秀忠から一字をもらい忠郷と名乗る。
○墓は高巌寺に建てられ「見樹院殿得誉元光居士」という。
○ 昭和44年の大町土地区画整理で北東へ約13m移動。骨は大塚山墓地へ
○ 五輪塔は寛永4年(1627)に造られる。高さ(4.23m)。
○ 3代松平正容(まさたか)が100回忌(1726年)に合わせ忠郷の木造を造る。

4代 蒲生忠知(がもうただとも)
慶長9年(1604)蒲生秀行の二男として生まれる。
寛永3年(1626)9月28日、上山4万石の領主となる。
寛永4年(1627)兄忠郷が死去。母が家康の娘のため家督相続を許される。
寛永4年(1627)2月10日、会津から松山と日野の合計24万石で伊予松山へ移封。
寛永11年(1634)31歳で死去。嫡子がなかったことから蒲生家は断絶。
文責 石田明夫  
蒲生氏郷が大改修した若 松 城のすがた
会津の領主の墓所


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