彼岸獅子とはなにか 福島県の会津地方で春彼岸に行われる獅子舞。 獅子頭を付けて舞うことから獅子舞といわれる。 獅子とは、鹿やカモシカなどを指し、日本に古来より生息していた、けものをシシと呼んでいた。神は山に住んでいることから、山から下りてくるシシは、神の使いか化身と信じられていた。そこで、シシを捕ることはしなかった。また、その姿を真似て、踊ることにより神に祈ったものが獅子舞である。昔は、獅子の回りで、「花」や「山」といったものを被りながら、獅子とともに踊り、神の使いを強調していた。 会津の彼岸獅子 全国的には、春と秋に踊られるが、会津では春彼岸に踊ることから、彼岸獅子の名がある。 獅子舞は、太夫獅子、雄獅子、雌獅子の3人一組で演じられる。頭に獅子頭を被り、鳳凰を染めた袷(あわせ)着物を着て、手甲、小太鼓、両手にバチ、白足袋が一般的である。 種目は、三人枚舞と一人舞がある。三人舞いは、山下ろし、大切り、袖舞、バチ舞、柴さがし、雌獅子隠しがある。一人舞いは、弊舞、棒舞、弓くぐり、太夫獅子舞、雄獅子舞、雌獅子舞がある。 彼岸獅子の伝来 会津の獅子舞は、天喜4年(1056)に源頼義、義家が安部一族を討つ時、家臣の士気を鼓舞するために舞ったともいわれる。または、義家が八幡神社の分霊を会津に勧請したときに舞ったともいわれる。 天正2年(1574)に疫病が流行り、神に獅子舞を奉納して病気を追い払ったともいう。 寛永20年(1643)に保科正之が山形から会津に移封になったとき、一緒に伝えられたという。 正保2年(1654)に那須市野沢より小松の獅子が伝わったという。 江戸時代にはお盆にも踊っていた 『風俗帳』貞享2年(1685)と文化4年(1807)には、会津若松市北会津町中荒井、会津美里町高田、喜多方市熊倉、金山町横田、田島町では、7月14日から16日までのお盆に墓踊りとして、先祖供養として踊っていた。文化4年の記録では、春彼岸の7日間、一箕町滝沢、門田町南青木、神指町高久では獅子踊りをしていた記録があり、これが現在、春に行われるようになったものとみられる。秋は刈り入れで忙しく、お盆も忙しく、春が最も安定し、新たな作物への希望と先祖供養が合体したものと推測される。 彼岸獅子の行われている地区 南会津町栗生沢 会津若松市東山町天寧 会津若松市一箕町下居合 会津若松市大戸町南原 こども獅子(現在なし) 会津若松市一箕町滝沢 会津美里町西勝 喜多方市関柴町下柴 県指定民俗文化財 喜多方市松山町中村 会津若松市北会津町小松 戊辰戦争で8月26日、山川大蔵が獅子を先頭に城内に入ってことは有名。市指定。 磐梯町赤枝 会津の獅子は下柴と木流が源流 喜多方市下柴の獅子は、寛永年間(1624〜43)に下野国(栃木県)の古橋覚太夫が関柴に移り住み伝授したのが始まりという。県指定民俗文化財 会津若松市高野町木流の獅子は、寛永5年(1628)に下野国(栃木県)佐野野口村の青木角助が、木流村の竹林杢助(たけばやしもくすけ)に獅子を伝授したという。橋本木流の後藤家に村の代表として、伝来の由来書、巻物、獅子頭が伝わっている。「獅子伝之序」という由来書と、歌詞を記したもの2巻がある。伝来書と獅子頭(木流観音寺に保管)は、昭和58年3月24日に会津若松市指定文化財に指定された。 獅子舞の伝授 下柴の獅子舞の伝授 享保9年(1724)に会津若松市東山町天寧に伝授 明和5年(1768)に会津若松市河東町郡山に伝授 寛政9年(1797)に会津若松市町北町上荒久田と一箕町滝沢に伝授 文政11年(1828)に山形県米沢市梓山に伝授 木流の獅子舞の伝授 「相渡申証文之事」による 享保10年(1726)に会津若松市東山町院内と河東町大和田に伝授 享保11年(1727)に会津若松市河東町槻木に伝授 寛政11年(1799)に会津若松市町北町下荒久田と屋敷に伝授 文責 石田明夫
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