戊辰戦争とふくしま
大野原や戸ノ口原に残る白虎隊の塹壕(ざんごう)
会津若松市から河東町にまたがる大野原と笹山原(戸ノ口に近い部分を戸ノ口原と呼ぶ)には、会津藩と新政府軍が掘った塹壕が、数カ所残っています。同じような塹壕は、母成峠や勢至堂峠、蝉峠、束松峠、馬入峠、諏訪峠、横川など峠筋に存在しています。多くは、付近の農民を徴用し築かせたものです。なかには、慶長五年(1600)上杉景勝が徳川家康の会津侵攻に備えて築いた防塁を戊辰戦争前に改修した馬入峠、横川、勢至堂峠、諏訪峠、安藤峠などもあります。景勝時代のは、馬入峠(227メートル)、横川(140メートル)のように平坦な場所では、幅7メートルの空堀と高さ2メートルから5メートルの土塁を築いています。峠が急峻な場所では、尾根を半月形の平場にし、多くの段を築いています。戊辰戦争時の土塁は、景勝時代より規模が小さく、空堀はなく、土塁の前に犬走りが伴います。慶応四年(1868)8月21日、新政府軍は2千から3千人で母成峠から攻めてきます。会津藩では、旧幕府の大鳥圭介を主力に、二本松藩や仙台藩、会津藩の農民で組織された約7百人が、現在も残る土塁や塹壕を掘って守っていました。結果は知ってのとおりで、死者は会津藩が6人、新政府軍は0人でした。22日、新政府軍は猪苗代まで侵攻します。猪苗代城代の高橋権太夫(五百石、会津若松市役所北東向角に屋敷があった)は、自ら城と土津神社に火を放って退却します。その日の午後4時頃には、急な知らせを受けた白虎隊士中二番隊三七名の一部が、十六橋に到着します。間もなく、新政府軍の一部も十六橋に到着したことから、白虎隊は、強清水まで退却します。新政府軍は、笹山原(県立会津レクリェーション公園内)に塹壕を掘ります。現在長さ53メートル、深さ1メートルで残っています。新政府軍の塹壕は、明治時代になってから、若松29連隊の練習場指揮所として再使用されています。
会津藩では、佐川官兵衛の指揮のもと、臨時に集められた諸隊と白虎隊によって、強清水東の小山に、3列構えで塹壕を掘ります。西側の1列目は、北から、土塁が伴い深さ40センチで二段に構えた長さ70メートルの1号塹壕。その南に、長さ21メートルの2号塹。最も南に、深さ50センチで二段に構えた長さ17メートルの3号塹壕があります。2列目は、土塁の高さが40センチで3段に構えた4号塹壕。3列目は、長さ18メートルの5号塹壕。最も東に、長さ6メートルで深さ1メートルの6号と7号塹壕があります。道の南側にも塹壕の痕跡があるようです。その中で、最も東の6号と7号塹壕は、白虎隊が守った塹壕で、4人しか入れない小さなものです。両軍とも、雨の中、一晩中篝火(かがりび)を焚き、22日一日で築いたものです。戦闘があった23日は、大雨でした。新政府軍は、板垣退助の指揮のもと、土佐を先頭に、大垣、大村、長州、佐土原、薩摩の順に進み、午前6時ころの夜明けとともに戦闘を開始します。最前列にいた会津藩の農兵はこの時、全滅しています。新政府軍は、午前8時の段階では会津若松市市街地北東の一箕町にある堂ケ作山古墳に到着。午前9時過ぎには、新政府軍は土佐藩を先頭に若松城下に進入します。午前10時頃には、若松城大手門前まで土佐藩兵が進攻しています。白虎隊は、赤井谷地の西端を抜け、赤井集落に出て、大杉集落、不動川を下り、飯盛山に達するので
す。なお、笹山集落の西にも、西郷頼母の指揮のもと、郷頭や肝入・代官・支配役で組織した敢死隊約40人と、農民や僧侶・力士・修験者で組織した奇勝隊約80人が掘った塹壕が残っています。頼母以下の諸隊は、戦わずして背炙りから城下に戻っています。 文責 石田明夫
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