会津若松市から河東町にまたがる大野原と笹山原には、会津藩と新政府軍が掘った塹壕が、数カ所残っています。同じような塹壕は、母成峠
や勢至堂峠、蝉峠、束松峠、馬入峠、諏訪峠、横川など峠筋に存在している。多くは、付近の農民を徴用し築かせたている。なかには、慶長五 年(1600)上杉景勝が徳川家康の会津侵攻に備えて築いた防塁を戊辰戦争前に改修した馬入峠、横川、勢至堂峠、諏訪峠、安藤峠などもあり ます。 戊辰戦争時の土塁は、景勝時代より規模が小さく、空堀はなく、土塁の前に犬走りが伴っています。『戊辰役戦史』などによると、慶応4
年(1868)8月22日(新暦10月9日)、新政府軍は猪苗代まで進攻します。猪苗代城代の高橋権太夫(五百石、会津若松市役所北東向が屋敷 跡)は、自ら城と土津神社に火を放って退却。その日の午後4時頃には、急な知らせを受けた白虎隊士中二番隊37名の一部が、十六橋に到着し ます。間もなく、新政府軍の一部も十六橋に到着したことから、白虎隊は、強清水のまで退却します。新政府軍は、笹山原(県立会津レクリェーシ ョン公園内)に塹壕を掘って待ち構えます。会津藩では、佐川官兵衛の指揮のもと、臨時に集められた諸隊と白虎隊によって、強清水東にある小 山の菰土山(このつちやま)に、3段構えで塹壕をに掘り守ることになります。 戸ノ口原会津藩軍塹壕跡は、東側に面し、3列に造られています。最も東に築かれたA地点は、白虎隊の篠田隊が守備していた場所で、南北
方向に3ヶ所あり、大きさは、5メートルから6メートル、敵に面する東側が土塁状に0.3メートルほど高く、内側が1メートルの深さで、3人程度が入 れる大きさです。白虎隊が最前列として守った塹壕で、4人しか入れない小さなものです。中間のB地点は、2列目に位置し、土塁の高さが0.4メー トルで構えられています。長さ40メートルあり直線的に築かれています。西側のC地点は、北から、土塁が伴い深さ0.4メートルで2段に構えた長さ 70メートルの塹壕。その南に、長さ21メートルの塹壕。最も南に、2段に構えた長さ17メートルの塹壕が地形を合わせて曲線的に築かれていま す。 丘陵の頂上近くには、長さ30メートルの平場があります。『戊辰戦役史』によると西側に佐川官兵衛が臨時の諸隊を指揮し、前列に白虎隊が陣 取っていたとされています。8月22日、夜に隊長の日向内記は飯沼貞吉の言い伝えによると食料を取りに戻ったとされていますが、真意は作戦の 打合せに行ったのです。しかし、指揮官の佐川は強清水にはおらず、別な場所に指揮官がいて(西郷頼母の場所か)そちらへ向ったのです。そこ で、土佐の兵に見つかり、戸ノ口の陣地には戻ることができなかったのです。 戦いは、23日の早朝、まだ暗い内(午前5時頃)、空がわずかに明るくなった頃、新政府軍の若い者が勇んで、街道を進んだのです。そして、最前
列にいた篠田隊が射程距離となった約200メートル以内に入ったので発砲。戦いが始まります。一瞬、静かになりますが、そのご、戦いは一方的と なり。会津藩は敗北します。そして飯盛山に退却します。 戸ノ口から南に位置する猪苗代湖岸に位置する笹山集落の西には、西郷頼母の指揮のもと、郷頭や肝入・代官・支配役で組織した敢死隊約
40人と、農民や僧侶・力士・修験者で組織した奇勝隊約80人が掘った塹壕が残されている。遺構は、北や北西に面して、丘陵の中腹に長さ五b 程度に細長く溝が掘られたもので、深さは、0.5メートルです。新政府軍との戦いは、赤井川周辺で戦われたが、南側まで土佐は進攻せず、戦い は無かったようです。8月23日の戦いでは、頼母以下の諸隊は、戦わずして赤井から背炙り山へ登り、若松城下に戻っています。 戸ノ口原にある新政府軍り遺構は、国道49号線、猪苗代湖北西岸に位置する県立会津レクリエーション公園内にあります。北側のトイレ西に位 置する高さ約10メートルの丘陵上に塹壕が残されています。遺構は、弓なりに長さ54メートル、幅4メートルの塹壕が掘られています。西に面し土 塁があり、北側は、平場だけの平坦面となり、後方の東側も平場となっています。ここには、板垣退助が居ました。 文責 石田明夫
|
newpage12.htmlへのリンク