石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」
会津若松市の城館跡一覧 葦名氏歴代一覧 「小田山公園部分」 小田山の頂上部分には、会津藩家老の田中玄宰(はるなか)墓と、その下に丹羽家(にわけ)の墓地があります。それら墓地の場所を中心に山城の遺構があります。丹羽家墓地のある平場(ひらば)から北側に向かって12段の三日月形をした曲輪(くるわ)が馬蹄形に連続し、土塁もあります。平場は、幅約1間から2間あり、高さ約1m の土塁があり、城の大手口(正面入口)となる虎口(こぐち・入口)と推定される部分があります。尾根の高い場所には、櫓台(やぐらだい)の見張りが置かれていたと考えられます。明治時代以降、小田山都市公園の道路の建設で中段部分の平場の遺構が一部消滅しています。 「大窪山墓地部分」 小田山の南側、大窪山(おおくぼやま)墓地の部分は、幅1間から2間細長い平場と半月状の平場で構成されるもので、江戸時代に墓地に転用されています。また、遺構のやや上に位置する地点には、南と中央と西に土塁を伴った枡形状の虎口があります。所々に土塁状の遺構も確認されます。尾根の部分には、土塁や尾根をX字に切り取った堀切、竪堀(たてぼり)があります。 「寿山(じゅざん)廟」 葦名氏の墓地、3代光盛(寿山公)から9代盛政までの墓地と伝えられています。宝積寺裏側山麓にあったことが「葦名盛氏葬送之図」に描かれています。昭和に一度掘られていますが、錆びた刀剣が出土したといわれています。墓の実態は不明な部分があります。 「小田山古墳」 小田山の北側尾根上に、円墳が3基あります。1号墳は直径28.5メートル 、高さ3.6メートルあります。他の古墳は、直径10メートルで、組合せ式の石棺の蓋石(ふたいし)があります。 「大窪山共同墓地」市史跡 江戸時代、寛文4年(1664)10月、保科正之(ほしなまさゆき)の命により、会津藩の武士 を中心とする共同墓地に指定されています。墓の数は、約4000基(1996年『大窪山墓地調査報告書』)存在します。多くの城跡の平場が、墓地に転用されているようです。また戊辰戦争の時、新政府軍が構築した塹壕(ざんごう)跡が善竜寺側にあります。 「花見ヶ森廟(竹巌廟)」市史跡 葦名氏10代から19代までの墓地、央が16代盛氏(竹巌公)、西に17代盛興(もりおき)、東に18代盛高、北約50メートルに一基あります。盛氏墓は、直径11.6メートル、高さ3メートルの円形です。五輪塔は寛文5年(1665)に保科正之が作らせたものです。 青木山区 (荒佐原山・青木山地区) 市街地南東ニ位置する通称青木山と呼ばれる荒佐原山(あらさわらやま)と奴田山(どたやま)。北側の市街地に近いほうが荒佐原山です。荒佐原山には、頂上部分から三段の長さ50メートル以上の平場と、北側の平場群で構成されます。奴田山山には、長さ20メートルの土塁に囲まれた4段の曲輪群と、幅約10メートルの堀切が存在します。字館山や御殿場と呼ぶ地点もあります。 「修験の塚」 曲輪脇の山頂には、修験関係の直径4メートル、高さ1.2メートルの塚が3基あります。 まとめ 小田山城は、葦名氏本拠の砦となる詰城(つめじろ)で、鎌倉時代末に小田山部分が最初に築かれ、南北朝時代に奴田山地区造られ、その後荒佐原山地区が築かれたようです。しかし、葦名氏本拠の山城が永禄11年(1586)に向羽黒山城へ移ることから使用しなくなったと考えられる城跡です。 居館はどこか 小田山城は、最後の砦となる山城のため、山麓の平坦地に政治の場となる居館(きょかん)が存在していました。正慶(しょうけい)元年(1332)に『富田家年譜』によると、城内から出火した記録があることからも鎌倉末には居館がありました。その館は、『会津古塁記』『会津鑑』にある宝積寺にあった小田館と推定され、字限図を見ると、堀跡と土塁跡の部分が幅約10m で北側、西側、南側の一部に認められ、現在では、墓地となっています。文和(ぶんな)3年(1351)には、現在の若松城付近に、『旧事雑考』にある小高木館、『富田家年譜』にある黒川城が建てられます。至徳元年(1384)、7代直盛が黒川城を改修し城下町も整備します。天文(てんぶん)13年(1544)には、15代盛瞬(もりきよ)が現在の若松城の規模に大改修します。その後、伊達政宗、蒲生氏郷が改修し若松城(鶴ヶ城)となります。 文責 石田明夫
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