石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 

永和・高野・町北のゆらい
1 永和地区の歴史
 永和地区で最も古い遺跡は、約2千年前の平塚と河東町田中原にある宮腰貝塚と上高野の大天白神社にある弥生時代の上高野貝塚です。弥生時代になると、永和地区でも人が生活するようになり、稲作が開始されます。古墳時代になると、一層開発が進行します。その代表が屋敷遺跡です。古墳時代の始まりも北陸地方から文化が入っています。古墳時代の代表としての古墳が永和地区にもありました。6世紀と考えられる円墳の木流古墳が上沼に築かれます。奈良時代から平安時代になると、各地に大規模な集落が出現します。吉田の矢玉(やだま)遺跡、上吉田遺跡、西木流遺跡、鶴沼遺跡、平沢遺跡、会津アピオの屋敷遺跡、平塚遺跡、下高野の下高野遺跡など、会津地方でもこれだけ大規模な集落が集中しているのは珍しいことです。「高野」の地名の由来のとおり、高野町は、平安時代初めに開発された可能性があります。また、吉田の矢玉遺跡からは、種籾(たねもみ)の品種を書いた木簡が出土しています。界沢の東高久遺跡は、会津郡の下にあった多具郷(たぐごう)と考えられ、大集落と寺院跡も見つかっています。 鎌倉時代になると、現在の村のようななり、それぞれに豪族が出現し、館を築いています。それらは、葦名氏の支配下にあり、戦国時代まで続きます。木流、西木流、平塚、界沢、沼木、中前田、中地、平沢、中ノ明に館の伝承があり、実際に残っています。最も良く残っているのは平塚の館です。木流の穴沢氏は、伊達政宗に敗れた穴沢一族です。また、屋敷も政宗に攻められた只見町の簗取の人々が追われて住み着いた場所です。下高野には、政宗の乳母の寺が建てられます。また、上吉田では、お茶をたしなむ寺院があり、茶臼が出土しています。慶長5年(1600)の関ヶ原の時には、神指に巨大な神指城が築城され、神指の13の村が強制的に湯川や河東に移転させられています。平沢もその頃、現在地に移転します。江戸時代初めに、街道が整備され、森台は宿場として整備が進められています。

2 永和地区の地名
永和(えいわ) 明治22年(1889)に、当時の町北村と高野村が合併し、「栄和(えいわ)村」が誕生しました。しかし、明治24年(1891)に村議会で問題が発生し、村議会の補欠選挙や村長選挙でことごとく対立し、とうとう明治26年6月に村は分裂しました。そのそろ、栄和小学校として存在していましたが、村が分裂したので、同じ名前を使用することは出来なくなりました。その後、両村で組合学校を造ることになり、昔の呼び名を残し、「えいわ」と付けることにしましたが、字は「永く和が続くようにと願い」「永和小学校」にしました。

町北(まちきた)
 江戸時代から、若松の北に位置していることから、町北に呼ばれていました。現在の会津若松駅も町北でした。
高野(こうや)
 高野町には、高い野原はありません。高野とは「こうや」と呼び、平安時代に前半にか開拓されたところを全国的に「こうや」と呼ばれていました。その代表が、和歌山県の高野山です。約1,200年前に開発されたことを意味します。高野は当て字です。
せせなぎ川
 校歌にも歌われる川ですが、せせらぎは、きれいな川を意味しますが、「せせなぎ」は汚れた川の意味です。せせらぎもせせなぎも元は汚れた川の意味でしたが、後にまったく反対の意味を指すようになりました。
木流(きながし)
 木流の馬頭観音堂か平塚の薬師堂を建てる時に、河東町藤倉の二階堂の余った材木を大工が流して運び、建てられたことから木流と呼ばれています。材木を流した川は「大工川」と呼ばれ、平塚の南を流れています。馬頭観音堂には、競馬場があり、江戸時代に会津藩の殿様が毎年見にきていました。木流には、会津最古の彼岸獅子資料が残っています。獅子頭と文書があり、栃木県の佐野市から伝わったことが書かれています。市指定文化財です。木流の南側には「木流館跡」があります。そこに住んでいたのは、穴沢氏で、伊達政宗と裏磐梯の桧原で戦い敗れて、その一族の一部が住むようになりました。
上沼(うわぬま)
 平塚と上沼の間に江戸時代まで沼があり、その上にあることから付けられました。江戸時代に平塚から分かれた村です。小字名は昔「長者屋敷」と呼ばれ、約1,200年前、古代会津郡の役人の住まいがあった可能性があります。
平塚(ひらつか)
 約600年前に、平塚氏というのが住んでいたことから付けられました。室町時代の応永22年(1415)に平塚五郎左衛門が薬師堂を建てたと記録があります。その後、平塚氏は中地に移ります。永和地区の平塚という苗字は、平塚がルーツです。戦国時代には、平塚氏の後に埼玉県春日部市の領主だった春日部氏が豊臣秀吉に追われ、移り住みます。日本画の春日部たすく氏は、ここの出身です。
西木流(にしきながし)
 木流の西にあることから、江戸時代に付けられました。室町時代には、東森代村と呼ばれていたのが西木流の西側部分です。「新編会津風土記」南北34m、東西41mの館があり、延徳年間(1490年頃)に佐瀬七郎盛滋(さぜしちろうもりしげ)が館を築き、天正頃(1590頃)には森代又治郎(もりだいまたじろう)が住んでいました。一部発掘調査されています。
森台(もりだい)
 昔は、東側約100mの場所にありましたが、江戸時代に街道が出来て、現在地に移りました。森代という人が住んでいたことから付けられました。この村は半分から北が湯川村という変わった村です。
界沢(さかいざわ)
 会津郡と河沼郡との境にある沢であることから付けられました。また、沢とは「たく」とも呼び東高久から分かれたとも考えられます。東高久は、1,200年前、会津郡の下に郷があり、その一つに「多具郷」がありました。そこから、界沢と高久に江戸時代の初めの慶長18年(1613)に村が分かれました。この地区には、二つ館跡がありました。一つは村中で、「新編会津風土記」によると南北48m、東西38mあり、松本土佐が築き、後に金屋尾張守(かなやおわりのかみ)が住んでいました。金屋姓はその名残です。村の北西にもあり、南北54m、東西38mの大きさがあり、金屋氏が住んでいました。金屋氏は、上杉景勝について山形県に移っています。
吉田(よしだ)
 良い田が多かった意味か。葦の多い悪い田が多かったことから、逆の意味で吉の字を充てたとも考えられます。吉田では、全国的に誇れる重大発見がありました。矢玉遺跡から、1,200年前の種籾の品種が書かれた「木簡(もっかん)」が5点出土し、全国的に有名となりました。その木簡の品種は何と明治時代まで継続していたのも驚かされました。
上高野(かみこうや)
 先に説明したとおり、1,200年前の平安時代に開発されたところです。村の北に「大天白神社」があり、そこには、約2000年前の弥生時代の貝塚があります。純内陸の貝塚は、琵琶湖と諏訪湖と会津にしかありません。会津には、上高野の他に、平塚と河東町田中原との境にある宮腰貝塚と塩川町の三ヶ所で、いずれも弥生時代のもので、貝は「マツカサガイ」というカラス貝より小さな貝です。村東にある西方寺は、天文8年(1539)に建てられています。
下高野(しもこうや)
 高野の意味は同じです。村西に、十里柳があります。それは、江戸時代初めの加藤氏までは、一里が660mで、若松から約6.6キロであったことから付けられました。至徳元年(1384)に黒川城が築城された時に、材木を集めた場所とも言われています。それから3年後に寺が建てられていますが、天正17年(1539)伊達政宗の会津侵攻によって焼かれています。その年、伊達政宗の乳母のために下高野に寺が建てられています。
鶴沼(つるぬま) 沼川とせせなぎ川の近くに、鶴の首のような細く曲がった沼があったことから呼ばれています。昔は、下古屋(しもこや)村と呼ばれていました。

沼木(ぬまぎ)
 木とは、囲まれたという意味もあることから、沼に囲まれた村という意味です。上沼木には室町時代、館があり、南北56m、東西52mの大きさがあり、菊地弥三冶頼春(きくちやさんじよりはる)が住んでいました。菊地氏は江戸時代の住みつづけました。
中前田(なかまえだ)
 中前田のせせなぎ川を挟んだ北に、中島村というのが昔ありました。その村の前にある田を意味します。室町時代、上沼木の菊地氏の一族が、館を築きました。南北34m、東西45mあり、菊地右近頼景(きくちうこんよりかげ)が住んでいました。
下荒久田(しもあらくだ)
 荒は「こう」とよび、高野=荒野で、平安時代末にから鎌倉時代になると開発されたところを「こうや」から「あらた」=荒田と呼ぶようになります。開発には苦労があったことから「久」の字が加わり、「荒久田」と呼ばれるようになりました。
屋敷(やしき)
 昔は、中ノ明屋敷と呼ばれていました。屋敷とは、室町時代から戦国時代に開発された村を指します。「はりた」→「こうや」→「あらた」→「やしき」→「しんそん」→「しんでん」と開発された村の呼び名が変化します。屋敷は、南会津郡只見町の簗取から移りました。伊達政宗の侵攻により、梁取城が攻められ、一部が屋敷に移りました。神社は、只見町の簗取の南にある八乙女村から移したことから八乙女神社といいます。
中ノ明(なかのみょう)
 屋敷の西に、沼木の沼があり、沼の中に明るく光るものがあり、拾い上げると金の仏像であったという。それが、観音堂の本尊となっています。そのため、沼の中が明るいといことから中ノ明となりました、村内には、延徳(えんとく)中(1490年頃)大島小太郎守信(おおしまこたろうもりのぶ)によって館が築かれました。
達磨(だるま) 達磨堂があることから付けられています。中ノ明から分かれた村で、神指などから集められています。

藤室(ふじむろ)
 藤に関係する人が住んでいたことから付けられたとも考えられます。村の北には天満宮があります。
中地(なかぢ)
 中洲のような地形を中地ということから付けられました。室町時代に平塚に住んでいた平塚氏から苗字を貰い、平塚を名乗りますが、平塚氏が平塚から移り、後に中地を本拠とするようになります。平塚の平塚氏は、中地の平塚氏から平塚の苗字を貰い、平塚に平塚の姓が絶えないようにと付けられたものです。天文12年(1543)には、猪苗代兼載の弟子で平塚丹波守実恒(ひらつかたんばのかみさねつね)が住み、中地の天神様の前で連歌を歌ったという文化人です。館跡は、南北54m、東西30mありますが、子孫は現在ここに住んでいません。
平沢(ひらさわ)
 昔は、広沢と呼んでいました。湯川が広かった時の村名です。慶長5年(1600)に上杉景勝が神指に神指城を築城し、湯川も改修されたことから、平らな沢になり「平沢」となりました。村の北に館跡があり、室町時代には、二国(新国)若狭実国(にっくにわかささねくに)が37m四方の館に住んでいました。また、その近くには、「アラハバキ神社」というのがあります。その神社の発祥は、青森県の津軽地方で、製鉄集団の神社です。会津が南限で、平沢と湊町の赤井にあります。どちらも鉄造りに関係あります。平沢の先祖は、津軽から来た可能性もあります。

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