石田明夫の考古学から見た「会津の歴史」 
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会津本郷窯

 会津松平氏の祖、保科正之が長沼町の天神窯にいた水野氏を呼び寄せ、凍み割れしない瓦を作らせたのが始まりという。しかし、水野氏が入る以前に、久左衛門らが黒瓦を焼いていました。若松城の瓦は、城南東の小田山麓の小田瓦窯と会津本郷窯で焼かれています。小田瓦窯の製品は、黒瓦だけで、会津本郷窯より白く、柔らかいのが特徴です。会津本郷窯の瓦は、黒瓦と赤瓦があり、土は同じものを使用しています。 陶器の始まりは、正保2年(1645)水野源左衛門を若松に招いたが、亡くなったので、弟の長兵衛を再び長沼から呼び、瓦の改良にあたらせ、凍み割れしない鉄釉の赤瓦が完成しました。
 会津本郷町円通寺の釘隠しに紀年銘に文化13年(1816)とあり、その頃までには白磁が完成しています。東日本では、瀬戸窯(瀬戸は文化5年頃)に次ぐ古さです。なお、宮城県の白石焼きには文化9年資料もありますが、当時作られたかどうかはまだ断定されていません。

                 東北最古の白磁 会津本郷町円通寺蔵「釘隠し」文化13年(1816)
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上の図、右上の資料です。文化十三年
(1816)
蕎麦猪口(そばちょこ) 
円通寺蔵 文政十二年(1829)

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円通寺蔵
文政十二年(1829)8月

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  現存する宗像窯
会津藩御用窯跡

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伊万里や瀬戸と見分けがつかない会津本郷
天和三年(1683)の本郷

   会津焼と会津本郷窯
 1、はじめに
 会津地方で焼かれた会津焼は、古代・中世、戦国時代、近世・現代にかけて東日本では中心的な役割を果たしていました。古代から現代まで焼物が焼かれた地方は、関東や東北では、会津しかなく、全国的にも瀬戸窯や備前窯、越前窯などの6古窯に並ぶものです。会津焼の主要生産地は、会津盆地の南東に位置しています。会津若松市大戸町にある古代・中世の全国的にも代表的な大戸古窯跡群の「会津大戸窯(あいづおおとよう)」、会津若松市一箕町大塚山にある茶道の天目(てんもく)茶碗(ちゃわん)などの特殊製品を焼いた戦国時代の「会津大塚山窯(あいづおおつかやまよう)」。近世から現代まで続く会津本郷町の「会津本郷窯(あいづほんごうよう)」の3窯に代表されます。いずれの窯も、当時の政権が深く関与し、東北地方や関東地方の焼物生産に大き影響を与えています。
 2、古代・中世の「会津大戸窯
 会津若松市の市街地から南に約10`、国道118号線東側丘陵に位置し、香塩(かしゅう)、南原(みなみはら)、上雨屋(かみあまや)、宮内(みやうち)、下雨屋(しもあまや)地区に分布する古代の須恵器(すえき)と中世の中世陶器を焼いた窯跡です。奈良時代から南北朝時代まで、東日本を代表する窯跡でした。窯跡の西には、阿賀川が南から北へ流れ、北西対岸に位置しているのが会津本郷窯です。鉄道が無かった時代、阿賀川を利用した船運が物資の運搬で最も有効な手段でした。
 会津大戸窯や会津本郷窯の位置する地質は、会津盆地を形成した断層や地殻変動が関係している。基盤の層は、前期中新世から中期中新世の東尾岐層で、山岳部は、流紋岩火砕岩で構成され、谷の部分には細粒砂岩・シルト岩及び火砕岩となり、地下の熱水作用によって焼物に適した陶土に変化している。陶土は、会津大戸窯では、厚さ1b前後に堆積しています。須恵器や中世陶器、近世陶器の原料となる陶土は、同じものです。
 
 3、若松城の瓦を焼いた「小田瓦窯」と「会津本郷窯」

 会津地方は、降雪地であり古代から瓦の使用は少なかった。7世紀末から8世紀前半の会津若松市一箕町にある村北瓦窯跡の瓦は、古代の瓦窯跡です。その後、瓦の生産は蒲生氏郷が築いた若松城の黒瓦はまで焼かれていません。天正(てんしょう)18年(1590)、黒川(現在の若松)に入った豊臣秀吉は、城下の興徳寺に留まり奥羽仕置きを実施し、刀狩りを命じ、兵農分離を進めた。その政策を推進する人物となったのが蒲生氏郷です。氏郷は、黒川城(くろかわじょう)を大改築し、町の名を若松と改称、伊達政宗や徳川家康に対する押さえとして、城を大改修しました。若松城を改修する前には、会津本郷の向羽黒山城を大改修しています。文禄(ぶんろく)2年(1593)には7層の天守閣が完成します。秀吉の重臣であったことから、天守閣などの建物は、大坂城と同じく黒瓦で葺かれていました。瓦は重いことから城に近くで焼くのが通例であり若松城も同じでした。城に近い小田山麓の小田瓦窯跡で焼かれていました。氏郷は、『新編風土記』によると、播磨国(はりまこく)(兵庫県)より瓦師の石川久左衛門ら三人を呼び寄せ、南青木組の小田村の小田山麓で瓦を焼かせたと書かれています。色が黒かったので黒瓦と名づけ、上杉、再蒲生、加藤氏の時代になっても黒瓦を造らせています。瓦は、還元(かんげん)焔(えん)焼成(しょうせい)のため色が黒く、くすべ焼きとも言われ、やや軟質であった。天守閣の瓦は、軒の部分に金箔を押したものもが使用されていました。小田瓦窯は、寛文2年(1662)に会津本郷に移されるまで焼かれていました。
 会津本郷窯の瓦生産は、保科正之が水野源左衛門を長沼(須賀川市長沼)から呼び寄せ、正保(しょうほ)元年(1644)に窯を開いたのが始まりとされていますが、水野家に伝わる『当家先祖覚書』には、承応二年(1653)に、瀬戸右衛門が瀬戸・美濃窯で使用されていた鉄釉を表面に掛け、凍み割れしにくい赤瓦の焼成を開始する以前から瓦を焼いていたと書かれています。「本郷村に三郎衛門と申す瓦作を先御代より召し抱えていた」とあることから、保科正之以前から瓦を会津本郷窯で焼成していたことがわかります。三郎衛門の瓦は、赤瓦の焼成に成功する正保2年(1645)以前であることから黒瓦のようです。寛文10年(1670)『本郷村絵図』には、「東西十一軒瓦作家」とあり、新田地区には本来瓦を焼く「瓦小屋」とあり、生産体制が確立していたことと、瓦作家とあることから、瓦以外の物も製作していたことを示しています。
 小田瓦窯と、会津本郷窯の黒瓦、赤瓦は、原料の粘土が異なるとともに焼成温度も違っています。小田瓦窯の瓦は、軟質で白色に近い黄褐色をしていますが、会津本郷窯の瓦は、黒瓦・赤瓦とも胎土が荒く、砂や小石粒を多く含み、硬く焼かれています。瓦の原料は同じでも、黒瓦は焼成最後に酸素の供給を停止する還元(かんげん)焔(えん)焼成(しょうせい)、赤瓦は最後まで酸素を供給する酸化(さんか)焔(えん)焼成(しょうせい)です。
 若松城へ重い瓦を運ぶには、阿賀川を渡らなければならないことから小田瓦窯よりコストが高く付くにも関わらず、会津本郷窯焼かれたのは、原料の粘土が良かったことと、燃料材木調達がし易かったことが要因とみられる。
 瓦の焼成は、慶長3年(1598)に会津の領主となった景勝まで遡る可能性があります。この年から、2年間かけて最後の砦となる会津本郷の向羽黒山城を大改修しているからです。今に残る伝盛氏屋敷の大きな外枡形(そとますがた)の虎口(こぐち)や、本丸から縦に掘られた大規模な竪土塁(たてどるい)と竪堀(たてぼり)は景勝によるもので、現在の姿は景勝が改修したものです。そのときに、良質の粘土を発見た可能性があります。景勝は慶長5年に向羽黒山城から阿賀川下流約6`に、聚楽第や大坂城を模した神指城を築きはじめます。瓦を会津本郷窯で焼けば、舟で大量運搬が可能となります。発掘調査で、上吉田遺跡から16世紀末から17世紀初頭に属する会津本郷窯で焼かれた黒瓦が出土しています。

 4、戦国時代の「会津大塚山窯

 平成7年に発見された窯跡で、会津若松市の市街地北東の大塚山にあります。大塚山は、周囲の住宅地から約43b高い独立丘陵である。丘陵上には、昭和39年に発掘された全長114bの前方後円墳、会津大塚山古墳があります。窯跡は、単独1基と推定され、大塚山南斜面に築かれており、赤化した窯体や窯壁、物原が確認できますが、不良品を廃棄した物原は市道工事に伴って消滅しています。出土した遺物は、わずかです。製品は、鉄(てつ)釉(ゆう)が厚く掛けられ黒色をした天目(てんもく)茶碗(ちゃわん)、碗、灰釉が掛けられた灰釉(かいゆう)折(おり)縁皿(ふちざら)があります。天目茶碗は、わずかに茶色が混ざるものの黒色の鉄釉が厚い製品です。たま、灰釉折縁皿は、内面には15か16花弁の菊花となる押印(おういん)と呼ぶスタンプがあります。押印の形から、富山県の越中瀬戸窯に近い特徴がみられます。出土した遺物の年代は、天目茶碗や押印の特徴からすると、戦国時代の大窯(おおがま)のようです。瀬戸・美濃窯の大窯編年四段階に位置づけられことから、1590年から1610年に操業したようです。窯道具は、碗や天目茶碗を中に入れて焼いた匣鉢(さやばち)、擂鉢を重ね焼きする時に間に挟んだドチ、碗や皿を重ね手焼く時に使用したヨリ輪、トチンが出土しています。
 
 5、近世・現代の「会津本郷窯」

 会津本郷窯の始まりは、黒瓦の焼成に始まります。『新編風土記』には、正保(しょうほう)2年(1645)に美濃国瀬戸生まれ(瀬戸は尾張国)の水野源左衛門が、長沼で陶器を作っていたところを保科正之に招かれ、陶器を作ったが、間もなく亡くなり、弟の瀬戸右衛門が再び、長沼より招かれ、相続したとあります。茶碗の底に巴文があることが巴茶碗と呼んだとある。瀬戸は尾張国に属し、水野氏が住んだ窯は瀬戸市穴田窯で、後に赤津窯へ移っています。美濃国とすれば水野姓の多いのは土岐市駄知となる。長沼(須賀川市長沼)には、国道118号線南に天神(てんじん)窯跡(かまあと)があり、一部発掘されています。遺物は匣鉢(さやばち)がほとんどで、一部口縁に釉が掛けられた唐津系の擂鉢、瀬戸・美濃窯系の碗が出土している。年代は、美濃窯編年の17世紀中頃から後半に属するものです。水野家に伝わる『当家先祖覚書』では、水野源左衛門が正之の招きで正保4年(1647)2月に本郷で製陶を開始したという。そして、茶碗、水指、水こぼし、香炉、ハンダ、灰ホウロク、花生、人形、鳥獣の作物、牡丹唐草の置紋、青地薬を作ったという。しかし、同年11月に死去し、弟の瀬戸右衛文が慶安元年(1648)2月に後を継いだ。会津藩の佐川勘兵衛から、城中の黒瓦が凍みて割れることから釉をかけて焼くよう命じられ、瓦五枚を献上し、寒中に二ノ丸の堀へ30日浸しても割れなかったという。承応2年(1653)には太鼓門が赤瓦で葺かれています。瀬戸右衛門は、赤瓦を初めて焼き、石灰を初めて焼き、裸(素)焼き薄茶碗(すすちゃわん)、蕪(かぶら)花瓶(かびん)、水指、水こぼし、茶入れを焼いたという。当時焼いたとみられる陶器はまだ、発見されていません。以後会津藩では、瓦以外の器陶生産を試み、寛文5年(1665)には二代正経も本郷に来ています。延宝元年(1673)には、城中本丸で、瀬戸物作りを披露させられ、大坂から持ち込んだ陶土で焼物を作るように命じられています。それらから会津藩の期待の大きさが伺えます。また、歴代の葬儀に際し石灰を焼いて納めています。瓦や陶器だけでなく、石灰まで広く手がけていたことが分かります。さらに元禄元年(1688)には、江戸の高原焼の弟子となるよう命じられ、元禄2年には濃茶碗も焼けるまでになり、石州流の師範へも納めたほどでした。延享2年(1745)には、将軍吉宗より茶碗を作るよう命じられるまでになっています。当時の陶器は、会津若松市の妙国寺墓地から皿や小壺が出土しています。いずれも瀬戸・美濃窯の技法に近いものでした。全国的には、九州の肥前窯(伊万里焼)の白磁が好まれています。江戸中期になると、全国でも白磁を生産しようと競って研究するようになります。東日本では、尾張藩の瀬戸窯、会津藩の会津本郷窯などが藩命を受けて白磁化を進めたが、容易には成功しませんでした。寛政9年(1797)には、佐藤伊兵衛が藩から旅費を貰い、駿河、遠江、尾張、美濃、江戸、京都、讃岐、肥前、備前、長州の窯場見て廻り、とくに肥前では、会津藩の野村、林家の取り成しで大阪の布屋へ協力を依頼し、肥前に入っています。肥前藩の龍造寺家は、お家騒動で藩主の座を奪われたが、秀明の墓が興徳寺境内にあります。また、唐津藩最後の小笠原氏は、小倉藩の分家で、先祖の長時の墓は、東山町の大龍寺が菩提寺です。とくに、肥前藩の菩提寺である高伝寺では、伊兵衛は面倒を見てもらい、陶製技術の研究に当たっています。磁器が陶石から出来ることや、窯の構造、製造道具を学んで会津本郷へ戻り、早速陶石を発見し、手代木幸右衛門ら4人を弟子にし、寛政12年(1800)4月には、肥前の皿山風の窯を完成させました。そして磁器化に成功し「砕石手(さいせきで)」と呼ばれる酸化炎焼成の磁器が焼かれるようになります。しかし、最終段階の還元炎(かんげんえん)焼成技術までは習得出来なかったことから白くは焼けなかった。そのころ瀬戸窯では、文化5年(1808)頃に加藤民吉が白磁化に成功しています。美濃窯は、陶器の表面に白釉を掛け、呉須(呉須は会津若松市大戸町でも取れました)で書かれた「太白手(たいはくで)」と呼ぶ陶器質の陶胎(とうたい)製品が作られたものの、磁化に成功するのは会津本郷窯より後でした。仙台白石窯の白磁瓢箪(ひょうたん)型徳利に文化9年(1812 )銘が彫られた製品があるものの、それは後世に彫られた年号の可能性があることから疑わしいものです。
 手代木幸右衛門(閑山窯の先祖)が文政年間(1818から30)に「攻め炊き」で白磁が完成したとされていましたが、白磁の成功はもっと早かったのです。文化元年(1804)には伊兵衛は、瀬戸方棟梁を命じられ、新製(しんせい)瀬戸(せと)の製造が本格化します。しかし、文化7年(1810)には、新製瀬戸の製造が中止され、同九年には、藩からの扶持も止められ、各自での製造となりました。この段階ではまだ白磁は成功しませんでしたが、文化13年(1816)銘の「円通寺釘隠(くぎかくし)」が残っていることからすると、文化9年から13年の間に、会津本郷窯の白磁は完成したようです。東日本では、瀬戸窯に次ぐものです。
 「円通寺釘隠」は、会津本郷町円通寺の旧本堂内長押(なげし)に使用されていたもので、釘隠は本来飾り金具で製作されるものですが、これは白磁で製作されています。寺には三点残されていますが、平成7年の本堂建て替えの際には、壊れたものが他にもあったといいいます。大きさは縦6.6センチ、横8.3センチから8.5センチ、厚さ0.9センチの長方形をしています。中央に直径3ミリの釘穴が開けられています。表面には「白鳳(はくほう)山」「喜(き)福院(ふくいん)」「円通寺」という三種類の文字がそれぞれに呉須(ごす)で染付されています。呉須の発色は、くすんだ藍色です。「喜福院」の文字のある裏側には、墨書で「文化十三年(一八一三)子五月 廿四世静誉」と書かれています。「静誉」は、円通寺の僧籍簿と照し合せても矛盾がなく、この年に本堂が建て替えられています。手代木幸右衛門が夜遊びをして攻め焚きを発見したことにより(夜遊びは理由付けの一つで、実は瀬戸に自分で出かけ研究したといわれ、藩や他の陶工に遠慮したものと推定される)白磁化に成功したもので、「円通寺釘隠」は、白磁化に成功した者がこの寺に奉納したものか、寺が本堂建設に合わせ製作を依頼した記念すべき製品なのです。円通寺には、文政12年(1829)の蕎麦(そば)猪口(ちょこ)や花瓶などもあります。また、天保7年(1836)銘の白磁花瓶が北会津町小松の常徳寺にあります。以後、会津本郷窯は、白磁の一大瀬産地として、江戸や関東方面、新潟方面になどへ大量に供給されるようになり、技術も肥前窯や瀬戸窯とは見分けられないほど優れた製品を生み出していました。
 
 6、登窯の会津本郷宗像窯

 会津本郷窯では、登窯が1基、現在でも現役で使用されています。会津本郷宗像窯(むなかたがま)は、会津本郷町瀬戸町にあり、陶器の流れ持つ宗像亮一氏所有の窯で、明治前半頃に一度改修されています。会津本郷窯の登り窯跡は、観音山の周辺に多く散布して、会津藩の御用窯も観音山の北西斜面に位置していました。窯が当時のまま完全に残され、稼動しているのは宗像窯ただ一つです。宗像氏は、宗像神社(現在の広瀬神社)を建て神道の他に、焼物を生計の足しにしていたが、文政頃(1818から30)に六代目八郎秀延が、製陶に専念するようになります。そのころ窯が築かれていたとみられます。会津本郷は、戊辰戦争で砲火に見舞われ、町の多くが消失しています。窯も同様に被災したと推定されます。窯の構造は、瀬戸・美濃窯よりも肥前窯の構造を基本としながら、瀬戸・美濃窯の良さも取り入れた構造となっています。肥前の窯は、一般的に「丸窯(まるがま)」と呼ばれ、瀬戸・美濃の古(小)窯より大きく長いものです。窯は、通常胴(どう)木間(ぎま)があり、続いて捨間(すてま)と2室あり、焼成室と続くが、宗像窯は、捨間(すてま)が1室だけで、焼成室に移行しています。また、焼成室には、仕切り壁の下に通炎口(つうえんこう)の狭間(さま)と呼ばれるものがあり、肥前窯系の縦狭間(たてさま)を用いています。会津本郷窯の陶器は、瀬戸・美濃系の焼き方や形状を特徴としていますが、窯構造は、宗像窯で見る限り肥前窯に近いものとなっています。そのことは、佐藤伊兵衛の肥前窯潜入と深い関係があります。焼成を続けている東北地方の窯の中では、最古のものです。
                                               文責 石田明夫
※ 2005「越後と会津を語る会」発表論文を再編集
 参考文献
会津若松市『会津若松市史14・会津のやきもの』2000年
会津若松市『会津若松市史・中世2』2004年
会津若松市教育委員会『会津 大戸窯』(遺物編)1994年
会津若松市教育委員会『会津若松市埋蔵文化財分布調査報告書』1999年
会津若松市教育委員会『会津大戸窯南原73号窯跡』2004年
福島県陶業事業協同組合『会津本郷焼の歩み』1969年
石田明夫「会津大塚山窯」『福島考古』39号 福島県考古学会 1998年
石田明夫「近世会津焼きの編年的予測T」『福島考古』43号福島県考古学会
石田明夫「会津大戸窯跡」「会津大塚山窯」『中世奥羽の土器・陶磁器』高志書院 2003年
大河内風船子「長次郎 楽代々」『日本陶磁大系17』1990年 平凡社
斎藤孝正「灰釉陶器生産の一様相」『美濃の古陶』1989年
藤沢良祐『瀬戸・美濃系大窯とその周辺』(財)瀬戸市埋蔵文化財センター 1997年
藤沢良祐『戦国・織豊期の陶磁器流通と瀬戸・美濃大窯製品』(財)瀬戸市埋蔵文化財センター2001年
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